帝王=弥勒説

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 猫を横目に、弥勒仏に就て気が済むまで、探索することにした。

 

 インドから経典を運び、漢訳して弥勒信仰を中国に伝えたのが、「西遊記」でもおなじみの玄奘三蔵玄奘は、中国法相宗の礎を築いたとされる。この教えは、「唯識」といわれる。

 

 法相宗のことも少しは齧っておかねばならないと、義兄から譲られながら手付かずの「仏教の思想」12巻から、第4巻の「認識と超越〈唯識〉 」を抜き出したが、難しくて歯が立たない。

 

 収録されている服部正明氏と上山春平氏の対談で、少し輪郭が見えてきた(、気がした)。

 唯識は、認識論なのだった。外部の世界は、人間が認識して初めて存在するに過ぎず、そもそも存在するものではない、ということらしい。世界は「空」なるもので、そのことが認識できるようになると、今までの常識にとらわれた世界観から脱却し、本当の実存の境地が分かるようになる。(A)

 そのためには瑜伽修行をし、人間の潜在意識下に残る阿頼耶識の煩悩をも取り去る必要がある、といったことらしい。(B)

(A)の学問と、(B)の修行、実践と2つがセットなのだが、分離する傾向にあったらしい。(A)からは、禅の思想が派生したとのこと。

 

 その難しい学問を、唐に留学して学んだ2人の僧侶がいる。玄奘に見込まれて一緒に寝泊まりしたという道昭。そして、玄奘の弟子神泰に学んだという定慧

 定慧は、謎に包まれた僧侶で、藤原鎌足の長男である。14歳で、道昭らと共に渡唐したが、天智4年(665)に帰国してすぐ変死を遂げる。弟にあたる藤原不比等はその時6歳だった。

 彼の没後のことにもかかわらず、「多武峰縁起」では、鎌足の遺体を多武峰に移したのは定慧だとされている。孝徳天皇落胤とも伝えられ、多武峰談山神社妙楽寺)ともども、謎めいている。

 

 この唯識の哲学は、中国の為政者には、わかり易いところだけ利用されたようだ。先に記した「釈迦仏の後継、弥勒仏は、転輪聖王=理想君主が出る時に地上に出現する」という教えから、自分が理想の君主、転輪聖王だと僭称する権力者が出、やがては、自分が弥勒仏そのものだ(「帝王=弥勒」)という短絡した物話が作り上げられていった。

 

 典型例が、一時唐を倒して即位した則天武后。「大后は弥勒仏の下生なり。唐に代わりて帝位に即くべし」と、武周(690-705)を建国し、帝位を奪った根拠を法相宗のこの教えに求めた。

 則天武后は自ら、転輪聖王=金輪聖神を越えて、弥勒=慈氏となった皇帝という、尊号「慈氏越古金輪聖神皇帝」を名乗ったのだった。

 

 法相宗、定慧より3年前の斉明7年(662)に帰朝した道昭によって、日本に本格的に伝えられた。天武、持統天皇の支援を受け、薬師寺を建立、法相宗寺院の拠点を作った。

 先に、述べた塼仏、押出仏は、鍍金され金色に輝く弥勒仏等を百、千と集め、千体仏として、寺院の空間を埋めつくしたものだった。

 塼仏が発見された夏見廃寺は、大伯皇女が亡き父天武天皇のために建立したと伝えられる。

 

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 興味深いのは、先に触れた長谷寺の「銅板法華説法図」の銘記に、則天武后の尊号に似た表現が認められることだ。

「飛鳥清御原大宮治天下天皇」(天武天皇)を、「聖帝は金輪王(転輪聖王)をも超えて、逸多(阿逸多=弥勒)に等しい」と謳い上げているのだった。天武天皇逝去後、早い時期に制作されたらしい。

 天武天皇弥勒仏である、と宗教側も「帝王=弥勒」の考えを利用していた様子が垣間見える。

 

 藤原不比等は、持統女帝の相談役として、藤原京遷都を進め、若き文武天皇の後見役として活躍した。この人物が、弥勒仏を信仰していたというのは、当然と言えば当然ではある。

 唐で法相宗を学んだ兄定慧とのつながりばかりでなく、「帝王=弥勒」説を、飛鳥浄御原宮藤原京天皇に、道昭とともにすり込んだ側としても、重要な存在だったかもしれない。

f:id:motobei:20211015111036j:plain 小林義亮「笠置寺激動の1300年」

 

 私は、藤原鎌足、定慧と因縁の深い多武峰談山神社妙楽寺)で、明治時代に横浜・三渓園で知られる実業家の原三渓が、「弥勒仏の大摩崖仏」がここにあるはずだ、と境内で真剣に発掘して探した逸話を知った。(上掲書)

 定慧と不比等弥勒仏のつながりを思えば、実に興味深い話だが、残念ながら三渓の勘違いだった。

 間違ったのも、無理はない。同じ十三重塔のある笠置寺と混同してしまったのだったー。