ヨーロピアンスタイルの役行者

 人間に抱かれるのを断固拒否する我が家の猫も、淋しいのか、ベッドに上がって来て、身体を私の脚にくっつけてくるようになった。

 

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 猫が寝ている間に、手に余って来た「弥勒仏」について、フィニッシュを目指して考え続けてみた。

 

 十三重塔から、始めてみる。十三重塔といえば、鎌足、定慧、不比等と、藤原氏とのつながりが深い奈良・多武峰談山神社妙楽寺)の塔が一番よく知られている。

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 私は、若いころ、多武峰(とうのみね)は、「藤」の峰。

 十三重塔は、2+1+10=13

 つまり、藤原不比等。ふ(たつ)=2、ひ(ひとつ)=1、と(とお)=10。名前の数を足した13ではないか。

 などと空想をしたのだった。世が乱れると山が震える「御破裂山」の伝説もあり、多武峰藤原鎌足親子の霊が漂う、神秘に包まれた存在に思えたのだ。

 

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 実業家・原三渓は、明治時代、十三重塔の左手に巨大な弥勒の摩崖仏が描かれた曼荼羅図を見、多武峰の十三重塔の横には巨大な摩崖仏があるはずだと、発掘したという。成果はなかった。

 だれでも、このような立派な十三重塔をみれば、多武峰談山神社と思ってしまう。笠置寺にもこんな十三重塔があったのだった。

 

 私は、笠置寺のことを知りたくて小林義亮氏の「笠置寺 激動の1300年」改訂新版(2018年、ミヤオビパブリッシング)を手に入れた。波乱に満ちた笠置寺の歴史を網羅した、地元生まれの著者がものした力作だった。

 

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この曼荼羅はかつて多武峰曼荼羅といわれていた。多武峰談山神社には山の斜面に拝殿があり、十三重塔があってこの曼荼羅の画に似ていたためである。しかしこの神社にはこのような石像はなかった。笑い話のようだが、この曼荼羅を手に入れた原三渓はこの像を求めてひそかに談山神社の境内を掘ったという。この曼荼羅笠置寺を描いたものであると判明したのは、昭和十一年、国宝に指定されたとき行われた文部省調査の結果で、国宝指定時にその名称が「笠置曼荼羅図」に改められた

 

 笠置寺奈良県境の京都府相楽郡笠置町にあり、寺の縁起では683年に創建されたという。摩崖仏はその前、天智朝に彫られたと言い伝えがある。

 

 だが、1331年南北朝の戦乱で伽藍は十三重塔もろとも焼失。火に弱い花崗岩弥勒摩崖仏もボロボロと崩れてしまった。今は、巨石に彫られた二重光背が残るだけだが、高さ15mもの摩崖仏の迫力は十分伝わってくる。近くにある少し小ぶりの線刻の虚空蔵石(弥勒菩薩説が有力)が当時の様子を偲ばせる。十三重塔は焼失後、石塔として再建され今に伝わる。

 

 幸い、15世紀創作の笠置曼荼羅図や、1209年に後鳥羽上皇の勅願で模刻された13.8mの大野弥勒摩崖仏(奈良県宇陀市)が現存するため、焼失前の弥勒仏は伺うことが出来る。

 この弥勒仏は立像で、私が探している倚像ではなかった。

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 ここでハッと思ったことは、笠置寺多武峰に共通する「十三重塔と弥勒信仰」の関連である。弥勒三尊倚像のある奈良・正暦寺にも十三重石塔がある―ではないか。

 

 奈良盆地周辺で、過去も含め、奈良時代まで遡る可能性のある十三重塔を探すと

 

 京都府相楽郡笠置町  笠置寺 

 奈良市長谷町の山上 塔の森十三重石塔

 奈良市多武峰    談山神社妙楽寺

 大阪府南河内郡太子町  鹿谷寺 十三重石塔

 

 笠置寺の一縁起に、私年号の白鳳12年4月(672年、或は683年)修験道の開祖、役小角が入山して修行したと伝えられているように、これらには、役小角山岳仏教の匂いが漂ってきた。

 小角は道昭と同時代の人物で、634年ごろに生まれ、701年ごろ亡くなったとされる。葛城山中で修行し、吉野から、奈良盆地の東側の山岳地帯、多武峰―長谷-塔の森―笠置へと修験道の拠点を拡大していったようだ。

 

 持統女帝が度々訪れた吉野は、当時「弥勒浄土」の地とされていた。小角は吉野金峰山とも深く関わっていたのだろう、葛城と吉野を空中架橋でつなごうとした伝説が残っている。鎌足の病気も治した話があり、まるで魔術師である。

 小角には、法相宗を日本に伝えた道昭とのつながりを示す話が残っている。道昭が唐に留学する途上、新羅の山中で講義をしたが、その時、その聴衆の中に、小角がいたというものだ。

 法相宗の教義で考えると、A)学問としての唯識 B)修行としての瑜伽の、2つの要素があると前に書いたが、B)の瑜伽を、役小角修験道という形で展開したのではないか。と仮説を立ててみたくなる。

 

 道昭は、天武、持統の信任を得、薬師寺など法相宗寺院を建立し、地方寺院にも勢力を拡大する一方、実践では社会的な土木事業参画(弟子の行基に継承)を行ったことは間違いないが、山岳修行の拠点の開拓もまた、瑜伽修行と関連して進めたのではないか。

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 山岳仏教のネットワーク作りは、役小角が行ったのだろう。葛城山の北の二上山の山中には、鹿谷寺という石窟寺院跡があり、石窟内には、石造の如来三尊が残され、山中には岩を彫り出して作った十三重塔も立っている。如来弥勒だろう。(山麓當麻寺には、古い弥勒仏坐像がある)

 

 小角が創始した修験道は、密教流入する前には、「弥勒仏」の信仰が背景にあったのではなかったか。

 後世造られた役小角の像は、いずれも、弥勒仏のように、ヨーロピアンスタイルの「倚像」として残されていることも、このことと関係があるのではないか。