唐代の楽山大仏をどこから理解していこう。坐り方から考えてみるか。
楽山大仏は、台座に腰かけていて、両脚は前に下ろしている。我々が椅子やベンチに腰かけている姿と同じだ。
この坐り方の仏像は、ガンダーラ地方で古く登場したことで知られる。アレクサンダー大王等に象徴される東西混淆のヘレニズム文化の一つの表現と考えていいようだ。倚坐とか、善跏趺坐といわれるが、「ヨーロピアンスタイル」の坐り方の仏像ともいわれているのだという。
調べると、唐代に作られた大仏は、その多くが倚坐であり、その一群とともに楽山大仏も解釈すればいいのだった。
この時代の大仏は、シルクロードの「敦煌」から、唐の首都「長安」を結ぶ古代交通路に沿って石窟寺院とともに造られた。ガンダーラから敦煌へ伝わったヨーロピアンスタイルの坐り方の仏像が、石窟寺院とともに長安への道筋に生れたのだ。
では、この坐り方をするのは、どんな仏なのか。地上に現れた「弥勒仏」なのだった。法隆寺五重塔初層に、須弥山らしき山岳を背景にした四面の塑像群があり、南面に弥勒塑像群があるので調べてみると、やはり、中央の弥勒仏はヨーロピアンスタイルの坐り方をしていた=写真下=。
法隆寺の塑像は、敦煌の石窟壁画との共通点が認められていて、小さい弥勒仏ながら、敦煌石窟の唐代の文化が日本にも届いていることが分かるのだった。(参考・斎藤理恵子「法隆寺五重塔塑像の主題構成と塑壁の意義」南都仏教1997)
弥勒菩薩は日本の寺院でよく見かけるが、「弥勒仏」の印象は薄い。WEBで大変わかり易い論文を見つけた。宮治昭氏の「弥勒と大仏」(オリエント31-2)。
私は、仏教は「釈迦」の存在が絶大なのだと考えてきた。ところが、仏教には過去―現在―未来という時間軸を取り入れ、釈迦を相対化する別の考えがあるのだった。
釈迦誕生の前、毘婆尸仏はじめ6代の過去仏がいた。
今から約2600年前に釈迦が誕生し涅槃した。
そして、釈迦の後には「弥勒仏」という未来仏が現れるのだという。
「弥勒経」などの経典によるとー。
過去仏の毘婆尸仏の頃は、人々は8万歳(あるいは8万4000歳)の長寿だった。
釈迦の時代100歳になった。
未来仏の「弥勒仏」が下生すると、過去仏の時のように8万歳(あるいは8万4000歳)が回復する。
寿命ばかりか、仏や人間のサイズも変化する。
初代の過去仏の毘婆尸仏は、身長が16丈(48.5M)あった。
釈迦は、身長が丈六(4.85m)と10分の一に縮まった。
未来仏の「弥勒仏」が下生すると、過去仏のように16丈に復活するー。
以上の事から、唐代の大仏建造は、身長が復活した未来仏を象ったものだと理解できた。唐代の敦煌莫高窟、天梯山石窟、炳霊寺石窟などの高さ20-30m台の巨大仏像同様、楽山大仏も、地上に出現した未来仏なのだった。
どういう条件で弥勒は出現するのか。弥勒経では、「シャンカ転輪聖王が出現することが前提となっている」「弥勒は単に未来の仏陀というにとどまらず、転輪聖王という理想的な王権と結びついて、聖俗両界において理想社会を実現するユートピアの象徴として信仰されることにもなる」(上掲論文)
地上に聖王が現れ繁栄がもたらされるとき、弥勒が下生する条件が整う、ということらしい。(私は弥勒仏は56億年先にしか下生しないと思っていたのだった)
唐代の楽山は、塩の生産、流通で富が集中した地域だったという。支援者の莫大な資金提供で、大仏やら石窟寺院の建設が果たされたのは間違いない。唐代の繁栄を象徴する90年がかりの「弥勒仏」の建造だったようだ。
未来仏への熱い思いは、日本には届かなかったのか。ここまで書いてきて、東京・深大寺の白鳳時代作といわれる銅造「釈迦如来像」を思い起こした。これはまさにヨーロピアンスタイルの「弥勒仏倚像」ではないか。