オリエンタリカと白鳥庫吉論文

 手元に、昭和23年8月発行の、「オリエンタリカ創刊号」がある。184頁もある、東京大学東洋史学会編集の同誌は、錚々たる学者が力を込めて書いた論文が詰まっていて壮観でさえある。

 

f:id:motobei:20200430150431j:plain

 戦後の東洋史のスタートを切る象徴的なこの学術誌は、しかし、東洋史の学術誌というより、日本古代史をテーマにした4論文が掲載され、この後の日本古代史のブームを予見するものと思えないこともない。

 邪馬台国論3点、宋書倭の五王論1点。中学、高校時代に「邪馬台国論争」に夢中になった思い出があり、あのブームの戦後の原点は、「オリエンタリカ」だったのかと感慨がある。

 

 巻頭が白鳥庫吉氏の「卑弥呼問題の解決(上)」だった。同氏は6年前に逝去していた。この長大な論文は、矢沢利彦氏が病床にあった白鳥氏の口述を書き留めたものだった。白鳥氏は昭和17年の死を前にして邪馬台国論にこだわったのだった。

 というのも、白鳥氏は、欧州留学から帰国した後の明治43年、邪馬台国論争に一石を投じる本格的な「邪馬台国九州論」(「倭女王卑弥呼考」東亞之光に掲載)を発表した。卑弥呼を九州の女酋として捉えていたそれまでの九州論に、東洋史の視点からなる骨組みを構築したのだった。

 くしくも同年、京大では中国学の泰斗、内藤湖南が「邪馬台国大和論」(「卑弥呼考」芸文に掲載)を発表。魏志倭人伝に書かれた「南」は「東」だったと、方位論を展開し、女王国は大和にあった、と主張したのだった。

 まるで号砲のように、東大系の九州説、京大系の大和説の論争が始まることになった。

 白鳥は、論争に火をつけた一方の当事者として、亡くなる前に、新ためて「九州説」を整頓して再論したのがこの口述論文だったようだ。

 

 今回読み直して、ラストのメッセージが興味深かった。天皇の神性の政治利用を批判しながら論文を閉じていたことだ。

 日米開戦の幕を切って落とした真珠湾攻撃後、3か月たって逝去した白鳥氏だが、「卑弥呼問題の解決」では、戦時下、非常時下の古代日本の天皇のありようについて触れているのだ。

 邪馬台国は、卑弥呼が女王となり、男弟が指揮を執ったように、日本の古代、非常時下では、神功皇后(武内宿祢)や推古天皇聖徳太子)、斉明天皇中大兄皇子)など、女性がトップにたったという事実に目を向けている。カッコ内が実務の指揮官。

「国民の非常時に当って女身にまします天皇が即位し、実際政治の運用を男子の方にお任せになると云ふこの思想」は、「斉明天皇の御時まで尚ほ実在してゐたものに違ひない」。

  さらに、「この信仰そのものは後になって滅びたけれども、これが根幹をなす思想、--日本の天皇は真善美の全き体現者であり、神の代理人或は神そのものであると云ふ思想は冥々のうちにもなほ脈々と活きて今日に至ってゐるのである」と続け、この論文の末尾はー。

斯かる意味に於いての現人神なる語を誤解又は曲解して、或はこれを所謂神権を擁する専制君主の如く見做したり、或はこれを強ひて俗人の位置に引き堕し、言を皇室に託して私意を図らんとするが如き輩はよろしく三思して戒慎すべきものであらう

  この結びは、天皇統帥権をたてに陸、海軍が暴走し、開戦に突き進んだ東條内閣への、卑弥呼論を通じての歴史学者の確固とした批判だった、そう解釈するしかない。

 

f:id:motobei:20200430152000j:plain

 しかし論文は戦時中は発表されず、日の目を見たのは、戦後1948年だった。「カシキョロの遺言」の邪馬台国論といっていいのだろう。