三宅米吉と三浦休太郎

 歴史学者白鳥庫吉の千葉中学校時代の先生で、一緒に伝通院境内で起居をともにした歴史学者三宅米吉について、しばらく追ってみることにする。
 三宅の身近に、明治時代の修史行政に携わった官僚の大物・三浦安(旧名・休太郎)がいたので、どういうつながりがあったか、気になっていたのだ。いささか不本意の「STAY HOME」の日々に、あらためて調べてみることにした。


 三宅が白鳥と起居をともにした明治14年、内務権大丞、図書局長だった三浦は、修史館監事として、新政府の公式歴史書「大日本編年史」の作成を進めていた。4年前に編集の責任者に、西郷隆盛との交流で知られる薩摩藩出身の歴史学者重野安繹を起用。南北朝時代から王政復古まで、新時代の日本の正史を編集する大事業を担っていた。(結局、未完に終わった。)

 官僚として地位をあげ、やがて東京府知事にもなったこの三浦は、実は、幕末の京都で、海援隊に命を狙われた紀州藩士だった。ともにケガを負わされたのが、米吉の父、三宅栄充(旧名・精一)だった。庄屋の子に生まれたが、頭脳明晰であったため、紀州藩士三宅家の養子となった。栄充は、紀州藩が巻き込まれた、坂本龍馬率いる海援隊との「いろは丸事件」の不首尾の後始末にあたった人物だ。

 
 いろは丸事件とはー。

 慶応3年、海援隊大洲藩から借りていた、英国製蒸気船「いろは丸」で、長崎から大坂に向け航行していた。4月23日(新暦5月26日)深夜、讃岐沖を航行中、反対方向から進行していた紀州藩船明光丸と衝突した。明光丸はいったん後退し、再度前進したとき、再び衝突。5倍もの大きさの明光丸に、いろは丸は大きく破損。人的被害はなかったが、鞆港へ曳航中に沈没した。

 紀州藩と賠償交渉に乗り出した龍馬は、海洋ルールを持ち出しての得意の弁舌を駆使した。長崎から大量の銃器を大坂に運んでいたというブラフも用いたようだ。積荷の分も含め、紀州藩の交渉窓口、茂田一次郎(勘定奉行)は、8万3500両の賠償金を申し出てしまった。

 驚いた紀州藩は、茂田を召喚して謹慎(その後切腹)。新しい交渉担当に藩吏の岩崎轍輔と小普請三宅栄充を当てた。

 

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 このあたりのことは、伊東成郎「幕末維新秘史」(新潮文庫、2009)に詳しい。同書に沿って、辿ってみる。

「岩崎は長崎で改めて海援隊側との交渉にあたった。その間、三宅は長崎から急ぎ京都へと移り、土佐藩の参政・後藤象二郎と交渉を試みた」

 三浦休太郎は、伊予西條藩士の息子で、江戸の昌平黌で学んだ才子だった。元治元年、西條藩の宗藩だった紀州藩に移った。三宅が後藤と交渉に当たった時は、京都で「周旋方として華々しく活躍していた。/強い佐幕の念を持」(同書)っていた。
 
 後藤と交渉に向かった三宅は、不在と称して現れなかった後藤本人を、配下の者と交渉中に目撃し激高。「自藩に戻り、土佐藩に強硬手段を執るよう上申した」(同書)

 ところが、大変なことが起こる。「再開されたその交渉が、まだ決着を見ない十一月十五日、坂本龍馬が、京都河原町の宿舎で暗殺された。/交渉はその六日後に、紀州藩が当初より減額になった七万両を海援隊側に支払うということで決着した。だが時期的に見て、いろは丸の一件が龍馬暗殺の要因となったのではないかという声が上がってきた」

 そして、同じ紀州藩出身の陸奥宗光海援隊の仲間たちは「三浦休太郎こそが龍馬襲撃事件の黒幕」と決めつけた。「三宅精一もまた、身に覚えのない怒りを買うことになってしまうのである」。

 三浦暗殺の動きを察知した京都守護職は、三浦らを警護するため、新選組斎藤一らを動かす。斎藤らは、12月7日、三浦らの宿舎、京都花屋町天満屋に現れて挨拶、戻ってきた三浦や、三宅らと酒宴を開いた。そこを、海援隊が襲撃に入ったのだった(天満屋事件)。双方に死者が出たが、三浦、栄充とも免れ、栄充の顔面にも、頬から顎へかけて大きな刀傷が残った。

 2日後に王政復古。三浦は収監され、東京に移送され、禁固5年の刑を受けたが、翌年免除。明治5年には、大蔵省7等官となり、官吏として出世してゆく。三宅栄充は裁判官となって、地方を巡った。


 三浦は地方勤務の栄充に代わって、上京が決まった米吉を東京から和歌山まで迎えに来た。米吉の面倒をみるつもりだったのだろう。米吉は12歳で慶応義塾に入学した。だが、学制の変更など米吉は慶応義塾のあり方に反発。中途退学し、ほぼ独学で歴史学者、教育学者への道を歩む。(やがて嘉納治五郎ののちの東京高等師範学長、森鴎外の数代あとの東京帝室博物館総長など歴任する)。

 三浦にとって、三宅米吉は、幕末の命がけの同志の息子。こののち2人の関係は、表面上は出てこない。しかし、新時代の歴史書、歴史教科書を作るという点では、三浦安と三宅米吉はこの後同じ道を歩くことになる。強いつながりがあったのではないか。(続く)