重野安繹の後輩だった三浦安

 三浦休太郎(1829-1910)は、王政復古の後、安(やすし)に改名する。39歳だった。
 

 明治5年 大蔵省7等官
 明治6年 左院4等議官
 明治7年 地方官会議御用掛
 明治8年 内務省5等官
 明治9年 内務省大丞 図書局長

 5年目で大丞になる。内務省のナンバー4だ。卿(大臣)、大輔、少輔に次ぐ。

 

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 幕末に、京都で新選組とも交流のあった佐幕派紀州藩士が、着々と官吏として地位を固めている。


 理由は、新政府内に人材が不足していたため重宝されたのだろう。三浦は、伊予西條藩から派遣され、嘉永3年から安政元年まで5年間、昌平黌で学んでいた。21歳から26歳の間だ。

 そして、明治10年、修史館監事の任につく。
 
 当時の修史館については、松沢裕作「重野安繹と久米邦武」(山川出版社、2012)が参考になった。
 修史館は、明治2年明治天皇の「修史御沙汰書」を受け、新政府の下、日本の「正史」を編纂する役所だった。曲折あって明治7年に「修史局」となったが、財政節減の要請から明治10年、修史館と改称され、規模が縮小された。このとき、監事として三浦が任についたのだった。
 
 修史局には、重野、川田剛、長松幹、小河一敏が各時代の史料収集にあたっていた。川田ら国学・水戸学の流れを汲む学者のなか、ひとり薩摩藩出身の異例の学者がいた。それが重野安繹(1827-1910)で副長だった。

 薩摩藩から派遣され昌平黌で学び、「天下の才子」といわれた人物だった。嘉永元年から同6年まで在籍し、三浦の2年先輩で顔見知りだった。
 松沢によると、昌平黌は、朱子学儒家の教育のイメージが強いが、最近の研究では、黒船来航の折、国際情勢の収集など古賀謹一郎を中心に積極的に西洋知識の吸収をしていたことが明らかになっているという。進取の気性があったということだ。

 重野の波乱万丈の生き方は別にして、修史局に於いては西洋知識を得て、新しい歴史編修を行うことを志向する考えだった。予想通り、国学・水戸学の流れを汲む漢学者の川田剛とぶつかった。

 修史館の監事となった三浦安は、昌平黌の2年先輩の重野に組した。重野を一等編修官に上げ、同12年には、重野の希望だったのだろう、「岩倉使節団」に同行し公式記録「特命全権大使欧米回覧実記」を編纂した歴史学者の久米邦武(1839-1931)を三等編修官に任命。重野の右腕として活躍する場をお膳立てした。

 同年、川田と修史館の後輩、漢学者で演劇評論家でもあった文部省の依田学海は、「重野を『腹黒』、三浦を『えせもの』と呼んでおり、このころ重野派と川田派の対立が根深いものになっていたことをうかがわせる」と松沢裕作は同書で記している。翌年、重野と三浦は「歴史書の執筆」に取り掛かるため、修史館の改組を提案。結局川田派は追放された。
 
 重野はどういう歴史書をイメージしていたのか。明治11年、修史館は別目的で英国に派遣される末松謙澄に英仏の歴史編纂方法を研究させるように依頼した。末松は、亡命ハンガリー学者ゼルフィーに執筆を依頼し、日本政府の費用で「歴史の科学」を出版、日本で翻訳させた。実証主義だったようだ。修史館は、全国に亘って歴史史料を蒐集する事業に取り掛かり、「大日本編年史」の執筆を開始した。
 

 史学会を創立した重野は、実証主義から、確かでない伝説の歴史人物をばっさばっさと歴史記述から抹消した。「太平記」に登場する南朝の忠臣、児島高徳を抹消した時、世間でも話題になり、やがて「抹消博士」といわれるようになった。

 やがて、この反動が巻き起こる。

 この時期、三宅米吉はなにをしていたのか。

(続く)