三宅米吉の金港堂時代

 大英博物館へは、一度だけ訪ねたことがある。小学校の息子が夏休み、BBCに勤めていた知人宅で預かってもらったのを、迎えに行った時だ。すでに息子は知人家族と博物館に見物に行っていたが、幸いエジプトの遺宝を見に、もう一度行きたがった。

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 明治時代、欧米に留学した米吉は、ここで多くの時間を過ごした。帰国後、文部省の法隆寺の調査に加わり「獅子狩紋錦」が遠く中近東につながるのを発見したのも、大英博物館の体験あってこそだった。息子は、私と違って米吉と血がつながっているので、なんとか一緒に訪ねて見たかった。

 あらためて米吉の留学を調べてみた。明治19年7月サンフランシスコ行サンパブロ号で出国、明治21年1月マルセイユ発の郵船で横浜着。1年半の欧米滞在は、「留学」といった悠長なものでなく、金港堂の出版事業のための「調査旅行」、海外出張だったことがよく分かった。

 

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 昨年、謎に包つまれていた明治時代の出版社金港堂の全貌を明らかにした稲岡勝氏の「明治出版史上の金港堂」(皓星社)は、頭が下がるような力作で、米吉のことも詳しく書かれている。

 同書によると、帰国してすぐ、金港堂編輯所取締役主務として、29歳の米吉が行ったのは、編輯所を4部に分け、さらに巡視部を設けたことだった。
① 教育部 教育に関する図書の編著
② 小説部 小説類を著述
③ 雑誌部 雑誌の発行
④ 庶務部 雑務の処理かつ、印刷の校正係と監督係の設置
⑤ 巡視部 本部に置き、全国を巡視し各地との連絡体制の構築

 テキパキとした実務家の顔が伺われる。米吉の帰国を伝えた「朝野新聞」は、「1年半におよぶ調査旅行で、至るところ幾多の学者或は其向の商業家を訪ひ大に利益を得」たと書いている、と同書は紹介している。欧米の出版、編集者らビジネスマンとも数多く会って、ノウハウを学んできたことが伺える。

 興味深いのは、欧米で雑誌によるメディア発信の重要性を確信した米吉は、学術誌「文」の発行とともに、小説雑誌「都の花」を発刊。樋口一葉二葉亭四迷らが寄稿し人気を呼んだことだ。明治に入って本格雑誌の登場を告げるものだった。

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 私がもっとも関心を持つのは、米吉が学術誌「文」で行ったことだ。創刊すると、米吉は自ら文章を書いたが、友人で先輩の東洋学者那珂通世に、「日本上代年代考」など一連の原稿を依頼した。

 皇紀と実際の年代の齟齬を整理する論文だった。すでに日本書紀神武天皇即位が実際より古くしているといった指摘は、江戸時代の本居宣長らによって存在していた。那珂の論文は、明治維新後初めて、グローバルな年代観の中に、日本ローカルの皇紀を位置づけをする試みだった。

 米吉自ら「日本史学提要」第一篇を書き、世界史と日本史の年代の比較検討でぶち当たった問題で、米吉は第2篇以降の著述に進めなかったとされる。那珂に託したのだった。

 那珂は、神武天皇の即位が、実際より600年、古くしたものだ、と堂々と主張した。

 窪寺紘一氏の「東洋学事始 那珂通世とその時代」(平凡社、2009)によると、三宅はこの論文を「文」を掲載すると同時に、歴史学者に意見、議論を呼びかけた。

 反応したのは、誰あろう、三浦安とともに修史館で実証主義に則って国史編修を進めていた重野安繹、久米邦武、星野恒と面々だった。彼らは那珂の説に賛同を表明して、「文」に投稿した。

 両サイドで連携があったかのような、反応。中村正直(ゼルフィの歴史書を翻訳)、末松謙澄(ゼルフィに歴史書を依頼)、前に触れた神田孝平(洋学者)らも賛成を表明した。

 当然、国学者の反発はあった。同書によると、小中村義象が総括して一文を寄せた。

 

 社会全体を見ると、明治20年代に入ると、時代の空気が変わっていた。鹿鳴館に代表される急激な西洋化に反発が起こってくる。米吉の前後に伝通院で起居していた杉浦剛が「日本人」「日本」を発行。江戸文化の復権の動きも進み、幸田露伴らが加わった。

 国粋主義の台頭で、天皇に対するタブーが顕在化してくる。
 三宅に留学の声をかけた森有礼文相は、翌22年伊勢神宮の参拝の仕方が悪い、と、暗殺された。「不敬」だとー。
 修史館の事業にも反対派の揺さぶりがあり、明治24年久米邦武の論文「神道は祭天の古俗」が、神道を侮辱していると火が付き、社会問題化した。神道団体の塾生4人が私宅に押し掛けて詰問する。久米は東京帝大教授を辞任。文部省は、明治26年、東京帝大に移っていた修史事業を打ち切り。重野も編纂委員長の職を解かれた。

 

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 金港堂は、教科書作りを縮小、部数が激減した「文」も廃刊とした。副社長となっていた三宅は明治28年退社し、東京帝室博物館や東京高等師範で学者、教育者の仕事に専念した。米吉の新潟時代の生徒で、東京高等師範の同僚だった新保磐次が独り残って、教科書作りを継続する。

(続く)