三宅米吉の留学まで

 やがて、東京文理大学長、東京高等師範学校長になる三宅米吉は、学校教育を受けたのは、わずか、紀州藩の藩校学習館の数年間と、13歳からの慶應義塾の3年間だけだった。いまで考えると、高校中退だった。

 昭和4年の米吉の古希祝賀会で、元文相鎌田栄吉(当時枢密顧問官、帝国教育会長)が来賓代表で挨拶して、そのことに触れている。鎌田は慶応義塾で同窓であったが、紀州の藩校学習館でも一緒に学んだ。


「(三宅さんとは)少年の時から御つき合ひをして致して居るのでありますが、(中略)子供の時から他の児童と違つてゐた。第一ものを言はぬ(笑声)、寡黙といふか、沈黙といふか、三宅君と云えば物を言はぬ人、ものを言はぬ人と云へば誰にでも分る位であった(笑声)。そして勉強する、学を好む事は食よりも甚だしい。慶応を出たのは極く若い時で、殆ど独学自修に依って非常なる学識を積まれた立派な学者である。今日学問は学校で教師についてすると云ふ考が世間一般であるがそれは間違つてゐる。勿論学校や教師が無用であると云ふのではない、それは学問には補助となるものである。(中略)諸君に学校をやめろといふのではない。自分の力で学問し、教師は足らぬ所を補ふものである。教師を離れて学び得る覚悟がなければならぬ」

 明治初期の学校や教育はこういうものだったようだ。当時の文部大臣もしっかりしていたものだ。

 同窓の尾崎行雄(その後首相)とともに不満をもって、慶応義塾を退学した米吉は、明治9年、父が新潟裁判所に転任となった新潟市に行き、募集していた官立新潟英語学校で教員となった。わずか17歳だった。米吉が学んだ慶応義塾の変則部では、英語教科書を用いて、英語、一般教育を受ける教育方法だったので、短い期間で相当の英語力を身に着けたようだ。
 
 新潟時代は、英語、物理、化学の教師をし、千葉高等師範兼中学で、理化学、英語、数学、植物学を受け持った。歴史学との出会いはいつだったのか。

 前に触れた白鳥庫吉が「文学博士三宅米吉君小伝」で、ヒントになることを書いていた。

 新潟から千葉の教師に移るため上京した明治12年。その時期に、紀州藩主の文庫(その後の南葵文庫)の「蔵書を借覧するの便を得、偶々わが上古の史籍に逢着」したというのだ。


 紀州徳川家当主徳川頼倫が、東京・飯倉の自邸に開設した私設図書館が「南葵文庫」。開設されたのは、明治35年(1902)。米吉が特別に閲覧を許されたのは、開設の23年も前のことだった。

 1908年の同文庫の目録を見てみると、蔵書量は半端でない。歴史関連では「万国史並外国史」「本邦史」に分類され、「本邦史」は「国史」「雑史」「史料」「伝記」「系譜」「儀式風俗」とさらに分かれ、数えると、「本邦史」の蔵書だけで3699冊あった。
 六国史のほか、旧事本記(寛永21年版)、伴信友「淡海帝名称考」「大友天皇紀」、青柳種磨「神代巻講説」、本居宣長「国号考」など、江戸時代の古代史の著作も数多い。

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 この体験で、国史研究の念を抱いたと白鳥は書いているのだった。

 この時、米吉は東京で草野政信宅に寄寓した。和歌山での少年時代も、父の赴任の際、寄寓していた人物だ。3歳で母を亡くした米吉は、独りっ子(父が再婚後、弟妹ができる)だったため、草野や三浦安らが面倒を見ていたのだった。和歌山時代、草野は民生局参事だったが、東京に転任していたようだ。

 明治12年の「上古の史籍」との出会いは、偶然だったのだろうか。

 この年、国史を編修する任務についていた修史館監事の三浦は、重野や新たに加わった久米邦武とともに、国が進める歴史編修の考え方を、西洋実証主義に舵を切っていた。

 千葉での1年の教師を経、東京師範学校の教員として呼ばれた米吉は、英語の授業とともに、初めて歴史を受け持つことになる。米吉は、師範学校の書庫で国史の関係書を読みまくったようだ。5年後その成果として「日本史学提要」が上梓される。米吉の処女出版だ。冒頭に引用図書が掲示されている。

 

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 六国史など日本の歴史書のほか、英書が多数掲載されているのに驚く。大森貝塚発掘をしたモースの著作のほか、歴史、考古関係だけでも、
 英国のJOHN LUBBOCK「PREHISTORIC TIMES」。史前時代を旧石器、新石器、青銅器、鉄器に分類した本だ。
 スコットランド歴史学者NICHOLAS MCLEODの「THE SKETCH OF THE ANCIENT HISTORY OF JAPAN」とあるのは、1878年長崎で発行された。

 

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 そして、洋学者で政治家、神田孝平(たかひら、1830-1898)の洋書「NOTES ON ANCIENT STONE IMPLEMENTS」(長男の神田乃武が英訳)。米吉は同書で、日本古代の石器を図版で引用している。

 この年文部省御用掛だった森有礼(のち文相)が師範学校で三宅に会い、「外国に行って勉強せよ」と誘った。文部省も歴史教科書の整備に動いていたためだ。結局、横やりが入って、東京師範の留学生は野尻精一に奪われたが、新しい教科書出版に関心を持つ大手出版社の金港堂が、米吉に入社する形で、欧米留学が実現する。
 
(続く)