素晴らしきセーヌの河岸キョロ

 東洋史学の大御所白鳥庫吉氏のパリ時代を、もう少し探ってみたいと思い「白鳥庫吉全集全10巻」を調べてみることにした。わが部屋には第1巻、2巻しかないが、どうやら10巻「雑纂他」に「ヨーロッパ通信(書簡)」があるのを知った。


 コロナ禍で図書館は休み。古本店で探すしかない。京都から取り寄せた。
 

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 あった。渾名の「河岸きょろ」についても、坪井博士への書簡に出てくるではないか。坪井博士とは東京帝大の坪井九馬三氏だろう。

 明治36年(1903)6月5日にロンドンから出した手紙―。


「パリに於ても、徒に日月を送り碌なる仕事も出来ませんで、甚だ汗顔の次第でありますが、東洋の書物は少々買ひ集めました。Maisonneuve、Lereumなどの如き東洋書専門の書肆で求めた書は、至て高くありましたが、御承知のSeine河畔にある野店の本屋では、割合に安く買ひました。六か月の間に集まった書物の数は六百三十部、千二百冊許になりました」

 当時優秀な東洋学者がそろっていた欧州で、学問を網羅吸収する使命を持って留学した白鳥は、パリでも欧州学者の東洋研究書を買い集めていたのだった。それを坪井博士に手紙で報告したものだ。一般書店で買うと高価なので、少しでも安くとセーヌ河畔の古本の出店で探していたのだった。それにしても1200冊は凄い。

「小生の河岸通ひは、彼地滞在の日本人間の評判となりまして、とうとう日本人会に於て、小生に『カシキョロ』の仇名を与ふることに決議致しました。其訳は、セーヌの河岸を毎日の様に目をキョロつかして、書物を捜すからと云ふ事でした」

 パンテオン会は、会員に綽名をつけるにあたって、その綽名でいいか、「決議」していたことが分かる。

 その時、会員たちの前で、庫吉博士はどう反応したか。

「そこで小生は一句をよみました。

 パリに来て何を
 スユール、ケー?(Sur les quais)
 本あさり」
 
 ケーは河岸だから、スユール ケーは「河岸で」の意味。
「パリに来てなにをしよるのけ?」

「しよるのけ」をフランス語の「河岸で(スユールケー)」とダジャレにして、会員たちに返したのだった。

 《パリまで来てなにをしよるのけと、と問われれば、セーヌ河岸で本あさりですよ≫

 

「一座の興を添へるだけの効はありました」と会員一同に受けたことを坪井博士に報告している。

 さらに、英国の様子を書き加え、「一昨日Oxford街のある書店で、偶然内田銀蔵君と出会ひ、御出の消息を伺ひました。同君も当地に於てしきりに書物をあさって居りますから、パリに参たら定めて「カシキョロ」第二世とならるる事と存じます」と続けていた。

 白鳥博士がユーモアあふれる人柄であることが十分伺われる書簡だった。