上代日向研究所について(2)

 上代日向研究所には、前述のメンバーのほか、宮崎県立中学校教諭の廣田孝一氏が委員として嘱託されていた。
 京都帝大で西洋史を学んだので、歴史の教諭だったのだろうか。
 生れは京都だが、高知で育ち、徳島夜間中の教諭をしていた昭和12年(1937年)、日中戦争が勃発、一兵卒として応召された。同14年に召集解除となり、同15年から宮崎中に着任したので、委員として声がかかったと思われる。
 
 研究所の所報に、2点論文を書いている。うち『「妻」地名考』を見てみるとー。
 
 妻町は、現在西都市にあり、古社「都萬(つま)神社」が近くにある。
 神武天皇が東遷に船出した地として、宮崎県あげて神話の故郷として盛り上げようとしているなかで、「妻」という地名はどんな由緒があるのか、県下の関心も高かったろう。同氏に論文の白羽の矢が立ったわけだ。
 
 廣田氏も、それを承知していたことは、文章でも伺われる。
 地名の「妻」と、神話で日向に天孫降臨したニニギノ尊の「妻神」コノハナサクヤ姫命との関連について、触れている。「妻」=コノハナサクヤ姫説だ。「現在の妻町の人々の間に伝はる信仰的信念であり、誇りであらう」。
 妻町近くには、西都原古墳群があり、「男狭穂塚、女狭穂塚の御陵墓参考地と云う物的証拠を持つものである」とも認める。
 さらに、本居宣長魏志倭人伝の「投馬国」は都萬神社のほとりにあったのだろうとの説も紹介している。
 しかし、廣田氏はきっぱり否定する。
 
木花開耶姫に関する由来は日向としては誠に興味ある、又さうありたい伝承ではあるが、現在の歴史は未だ此の間の事情を明にしてゐない。残念乍ら日向人以外をして、単なる地方的伝承の上に立つ疑問符的存在を出づるものではあるまいなどと云はしめる原因も此処にある」。
 
 では、廣田氏の考える「妻」とは何なのか。
「つま=尖、爪=端なる地形より来るもの」と言い切っている。
「例へば紀伊国津麻郷、美濃国妻木、伊豆国爪木埼、常陸国爪木、信濃国妻科、相模国妻田の現在の地形が「つま」=尖、爪端なる地形に負ふものであることに依っても或る程度まで確言し得らるるものであろう」。
 他地方のツマと同じ地形に由来のもので、特殊な名称でないと明言しているのだった。
 それが正しいのかは分からないが、周囲に忖度しない、学問的な良心は伝わってくる。
 
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 この論文の半年後、廣田氏は、高知県立海南中教諭に異動した。いきさつは分からない。昭和20年3月に応召された。
   戦後、無事戻って高知県視学員となり、やがて高知女子大教授をなって昭和41年57歳で逝去した。
 アメリカ史を専攻したが、高知の民俗資料「寺川狂談」研究に熱をいれ、沖縄への民俗調査の道半ばに亡くなった。
 
「廣田孝一遺稿集」(1968年)の序で、同大の学長徳田弥氏は、天衣無縫で、「いごっそう」だった廣田氏を回顧している。「専攻はアメリカ史であった。その研究も続けながら、それとは縁のほど遠い民俗学に足を踏み入れたということは、なんとしても不思議であった。それもよわい五十になんなんとして、その手習いをはじめたのであるから驚嘆のほかはない」と。
 
 廣田さんにとって、民俗研究がそんなに縁のないものではなかった。宮崎時代の上代日向研究所での活動を同氏は、周囲には詳しく伝えていなかったのだな、と思う。
 
 妻町近くの西都原を訪れたことがある。西都キャンプ中のヤクルト・スワローズの選手が階段を駆け上ってトレーニングしていた。もちろん女狭穂塚古墳も見物した。
 
 上代日向研究所にはほかにも興味深い研究者がいた。
 (続く)