石枕に踏み込んでみると

 石枕文化のルーツを探るには、石枕が最も早く出現した地域を調べることだろう。それが特定できれば、石枕の文化が、そこに海外から初めて伝わったか、あるいはそこで出現したかということになる。

 編年を作る作業は、最古の石枕を発見するために重要な手がかりだし、また、編年によって、石枕文化の地域性の変化が分かる。とりわけ興味深い題材なのだと思う。

 

 私は、それが丹後でなかったか、とあてずっぽうに前に記した。次の文章を見つけたからだ。4世紀の王墓、奈良県・新山古墳に関する下記の記述。

「新山古墳出土の枕型石製品は、よく似たものが桜井のメスリ山古墳、佐紀盾列古墳群の日葉酢媛古墳や京都府竹野郡丹後町宮の神明山古墳からも出ている」(門脇禎二「葛城と古代国家」)

 

 神明山古墳の石枕については、詳細は分からなかったが、丹後には、3つの大型前方後円墳があって、神明山古墳より古い、蛭子山古墳からも石枕が出土していることが分かった。最古級の石枕。残る網野銚子山古墳の近くからも、石枕が出土した。

 4世紀の丹後の首長達は、石枕を用い、また貼石で表面を覆う神戸・五色塚古墳のような古墳を日本海や潟湖を望む丹後半島に築いていたのだった。

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     =白井久美子氏「房総の古墳時代研究と稲荷台一号墳」(千葉史学、89年9月号)から。高松市の三谷石舟古墳からも古い石枕が出土しているようだ=

 

 垂仁天皇の2番目の妃となったのが、丹後出身の日葉酢媛。先の皇后の沙穂姫は、兄の謀反の手助けをしたため、兄と共に炎のなかで自死し、丹後出身の夫人たちに後を託したという記紀神話が残っている。

 奈良・佐紀盾列にあるこの日葉酢媛陵古墳から、石枕が発見され、また、垂仁天皇と日葉酢媛の子、景行天皇陵古墳(渋谷向山古墳)の近くの天理市渋谷から、碧玉製の石枕が発見された。

 日葉酢媛の夫、垂仁天皇については不明だが、鋸歯紋、直弧紋風の装飾がある「埴製枕」が長い間、垂仁天皇陵古墳出土として伝えられてきた(実際は、天理市中山町の燈籠塚古墳のものだと判明)のも、気になる点だ。

 日葉酢媛が、父、祖父らの葬制をヤマトの王墓に持ち込んだ。つまりー。

 

 埴製枕、石枕と被葬者に枕を用いる伝統は、

 丹後の首長    丹波道主

  その娘     日葉酢媛

 ( 夫      垂仁天皇

   子      景行天皇

 

 と、丹後出身の日葉酢媛を通して、垂仁天皇系の皇族に伝わった。

 孫にあたる、小碓命(尊)=倭建命(日本武尊)の東征先の常総で、一気に拡散するのは、倭建命が伝えたと考えるのが妥当だろう。被葬者は、東京湾香取海の水上航行にたけた首長連合が想定されているが、倭建命に同行した者たちがそのメンバーだったのか、あるいはそれ以前から定着した首長達が協力参加したかはわからない。

 

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 興味深いのは、丹後の神明山古墳から、船をこぐ人の絵が線刻された埴輪が出土していることだ=写真=。丹後の4世紀の首長達も海上航行にたけていたと推測される。

 常総地域にとどまって、ヤマトから東海道、東北への大動脈を確保したものたちに、丹後出身の支配層がいたのではなかったか。

 

 倭建命は、ヤマトに戻る途中で亡くなったと、記紀神話に描かれる。景行天皇のあとは、倭建命の弟の成務天皇が継いでいたが子供がなく、その後は、タケルの子が、仲哀天皇として皇位を継承した。常総の首長達の一部は、戻って仲哀天皇を支えたのだろう。仲哀天皇陵から遠からずの場所に、倭建命の陵墓と伝わる2つの白鳥陵(御所市、羽曳野市)がある。

 

 仲哀天皇は若くして亡くなり、琵琶湖東岸・息長氏出身の神功皇后が、応神を誕生し、新たな政権が作られる。その後も石枕が用いられたのかどうか、気になる。