玉造センターと倭建命

 佐賀市の知人から、定年後の仕事が決まったと、挨拶の電話があった。結構なことなので喜ぶと、小城市の会社に通うのだという。「小城羊羹の小城ですか」と答えると、「しっとっとですか」と驚く。砂糖が固くこびりついた小城羊羹は、なんども食べた。

 ほんとは、関東で鎌倉時代に活躍した千葉氏の九州の拠点が小城じゃないですか、と言いたかったのだが、説明が長くなるのでやめにした。

 

 千葉に拠点があった千葉氏は、海路、鹿児島にも、佐賀にも、福岡にも移動して、拠点を作った。家臣ばかりか、僧侶、土木の専門家なども往来して、町づくりに参画している。

 

 日本の歴史にも、当然ダイナミックな人の流れがあった。その好例だろう。

 

 ヤマトタケルの東征の説話は、ヤマト王権が、東国に戦争しにでかけたわけではなく、常総への入植と拠点作りが目的だったのではないか。そう考えてみた。

 

 常陸国風土記を見る限り、倭武天皇は、行路を進みながら、飲料水の確保、食料の調達の話が描かれている。

 

 1 新治県を過ぎた時、国造・毗那良珠命(ヒナラスノミコト)を派遣して新たに井戸を掘らせたところ、流れる泉が清く澄み、美しかった。

 

 2.茨城郡で(桑原の)岳(おか)の上にとどまり、お供えしようとした時、水部(もひとりべ)に新たな井戸を掘らせたところ、泉が清く香り、飲むのに大変よかった。

 

 3.行方郡を通り、槻野(つきの)の泉へ行き、手を洗ったが、その井戸は玉で作ってあった。

 

 食料については、鹿猟と、アワビ漁が出てくる。

 

 多珂郡飽田(あきた)の村で東の辺境を巡ろうと野に泊まった時、ある人が言った。「野の上に群れる鹿は、無数にいる」「海にはアワビがおり、大きさは八尺ほど。そして様々な珍味がある」。

 天皇は野に出て、橘の皇后は海で漁をし、獲物の量を競った。狩は、終日馬を駆り矢を射たが、一匹の鹿も得られなかった。漁は、少しの間だけで、あらゆる魚介を得ることができた。

 

 では、入植したものはだれか。

 

 ヒントは、白井久美子氏の論文にあった。常総の「玉造遺跡」群が、石枕、立花の出土する古墳群と分布が重なっていることを指摘するものだ。(房総の古墳時代の研究と稲荷台一号墳=千葉史学89年9月号)

 霞ヶ浦などを含む古代の「香取海」の南岸地帯で、たくさんの玉造遺跡群が発見されているという。茨城の北部の赤い瑪瑙などを集め、宝玉、装飾品に加工する一大工場地帯の様相を呈していて、玉造が5世紀の常総の大きな産業に発展したことを伺わせるものだ。

 先に述べた丹後地方では、弥生時代中期、大量の鉄器製造とともに、青いカリガラス製品、碧玉など当時のハイテク技術を誇る一大玉造遺跡(奈具岡遺跡)が知られていた。コバルトブルーのガラスの腕輪は、見惚れてしまう美しさだ。3世紀の日吉ヶ丘遺跡では500個近い碧玉製管玉が納められた王墓の墓が出現。4世紀に入っても、垂仁天皇に夫人を送り出した丹波道主の一族が、鉄と宝玉の管理支配をしていたと考えられる。 

 4世紀の玉造遺跡は、近隣の福井県加賀市の成山遺跡など発見されたが、丹後にも未発見の遺跡があったのか、はっきりしない。だが、4世紀のヤマト初期王権の奥津城、奈良南部の桜井茶臼山古墳メスリ山古墳等で発見されたおびただしい武器、宝飾の出土品に、丹後の技術集団が関わった鉄製品や碧玉製品、玉杖などが多く含まれていると想像される。

 

 一方、常総の玉造は、5世紀ごろから開始され、国内の一大拠点となった。産業を発展させたのは、技術をもった工人集団が大量に入植したことと、流通経路を確保できたためだろう、と考えられる。6世紀になると、遺跡は消滅し、玉造の拠点は出雲へ移る。

 

 ヤマトタケルの東征は、常総の玉造の拠点の創成事業と関連するのではないか。

 香取海南部の拠点確保と、瑪瑙の搬入、完成品の搬出(近畿へ)など東海道陸奥の交通路の整備、確保。タケルはそんな役割をもって、東国に向かったのではないか。征服者としてより、入植を支える王者としての人物像を描きたくなる。

 

f:id:motobei:20200710152904j:plain

 近所のすし屋に、ランチを食べに行き、猫模様のマスクを発見。手に入れた