騎馬軍団前史の倭建命

 若いころ、カメラマン2人と東南アジアへ仕事で出かけた。

 やがて一人は水中カメラマンの大御所になったが、もう一人は軍事評論家になった。軍事評論家になった彼は当時、カメラマンとして「軍事民論」という民間の軍事研究会を立ち上げたO氏の手伝いをしていた。軍事についてのアレルギーがまだ日本社会にまん延していて、研究するだけで、アンチ平和主義だ、ウヨクだと批判される状況に、いささか憤っていた。

 帰国後すぐ、同氏から自宅に夜中の2時ごろ電話がかかってきて、たたき起こされた。カメラマンだけでは食えないので、タクシードライバーのアルバイトをしている、近所に来たから、お茶漬けでも食わしてくれ、腹が減っている、ということだった。夫婦の前でがつがつと食べた後、じゃあ、とまた仕事に戻っていった。コンビニがない時代だったこともあるが、倹しい我が家の様子をチェックに来たのかもしれない。

 その後、細々と交流はあったが、軍事問題でテレビのコメンテーターとして顔を見ることが多くなった。ネットでは、時にサヨク扱いされ、激しい批判コメントにさらされることもあった。少年自衛官出身で、サヨクでもウヨクでもない裏表のない好人物だったが、数年前に亡くなった。

 

 古代でも、軍事研究をして具体的なイメージを掴まないと、歴史が理解できないのではないか。彼を思いながら、考えることがある。

 とりあえず、ヤマトタケルの東征は、どんなだったか。敵が野原に火をつけてきたのを剣で草をなぎ倒し、風上から火をつけて、逆に敵を殺害した、といった説話が知られるくらいで、よくわからない。

 

 「常陸国風土記」には、ヤマトタケルは「倭武天皇」として、13か所くらいに登場するが、首領を殺す場面が2個所あるだけだ。

 

 むしろ、風土記には、ヤマトタケルより、時代が下ったころに、騎馬軍団が土着の国巣、佐伯をせん滅した様子が描かれている。多臣の同族とされる黒坂命と建借間命の軍だ。

 

f:id:motobei:20200709184420j:plain 馬はそれ自体で武器だった

 

 黒坂命 茨城郡で、穴居の佐伯が外に出て遊んでいるとき、穴の内側に茨棘(うばら)を仕掛け、騎兵を放って佐伯たちを追い詰めた。穴倉に走り戻った佐伯たちは茨棘に引っ掛かり、突き刺さり、散り散りに死んだ。

 

 建借間命 波打ち際で兵士たちは遊楽歌舞を行って、堡(とりで)や、穴から佐伯の男女をおびき寄せた。伏せて隠れていた精鋭騎兵が堡を閉鎖して逃げ場をなくし、背後から襲撃した。

 

 籠る相手を、外に出させる。

 堡に逃げれらないように、出入り口を閉鎖する。

 逃げ場を失って右往左往するのを、騎馬隊が襲撃する。

 

 彼らの残酷な住民殺戮はこんなパターンだったようだ。

 

 このような騎馬戦法は、記紀では雄略天皇の時代に多数出てくる。

 ★巻狩に相手を誘って、鹿がいると騙し、弓で射殺、その部下たちを、騎馬軍団が皆殺しにする。

 ★伏兵を置いて、騎馬でやってきた相手を襲う。

 ★撤退したと騙し、相手が堡から出てきたところを挟み撃ちして殺す。

 ★火をつけて家に籠る一族を皆殺しにする。

 

 上記の黒坂命らの戦法と共通しているところもある。

 

 ヤマトタケルの「風土記」での軍事行動はどうか。

 

 行方郡当麻郷を巡行して通り過ぎた時、佐伯である鳥日子がいて、天皇の命に逆らったので殺した。

 同郡の藝都の里で、国栖の寸津毗古が、命令に背き皇化に従わず、大変無礼だったので、天皇は剣を抜き、すぐに斬り殺した。

  佐伯、国栖の首長を鉄剣で殺害するが、騎馬軍団の集団殺害とは違う。

 草なぎ剣など、王の軍の主たる武器は威力のある鉄剣であり、弓矢だった。

 巻狩り、追い込み漁などと共通する、相手を追い込んで仕留める、組織的な訓練をした騎馬戦術よりも前の時代の戦いだったようだ。

 

 一体、ヤマトタケルが東国にやってきた目的は、なんだったのだろうか。