春の山野草の会に、細と連れ立って行ってきた。毎回、面白い名称の草と出会う。
今回は、ムサシアブミの展示が数鉢あった。鐙(あぶみ)の形に似ているので、命名されたらしい。
鐙についておさらいしてみた。
鐙は、日本では、古墳時代に騎馬文化の流入とともに、馬具の一つとして作られるようになった。当時は、主に2系統のものがあった。
輪鐙(上左) 丸い鉄製の輪で、乗馬の際に足掛かりにした。乗馬した後では、足を外した。というのも馬が暴れ、トラブルがあったとき、輪鐙から足が抜けにくく大変危険なものだからだ。片方だけ吊るされていたと思われる。
壺鐙(上右) 壺を横にした形の鐙で、足先を入れ、乗馬後も用いられた。危険度が少なく、馬術に長けていない者も重宝した。左右両方に吊るされていた。
ムサシの国が含まれる関東地方の古墳からは、両方の鐙が埴輪などによって確認される。
さて、ムサシアブミの花から推測される鐙は、輪鐙にも、壺鐙にも似ていない。
花を逆さにすると、壺鐙が発展して生まれた平安時代の半舌鐙(はんしたあぶみ)によく似てくる。鎌倉武士が登場してさらに半舌鐙の「舌」が長くなった舌長鐙(したながあぶみ)に変って行くが、これにも似ている。
「日本では、平安時代に壺鐙から半舌鐙(舌の長さ四寸五分)に変り、さらに平安時代後期から鎌倉時代に、重装備に変ってきたため、騎馬戦で鐙を強く踏み込む必要から、絵巻物や屏風絵によく見られるような舌長鐙(舌の長さ八寸以上)に変っていった」と坂内誠一氏の「碧い目の見た日本の馬」(聚林書林、1988年)に書かれている。
舌の長さ13.6cmが、24.2cm以上に長くなったということは、足の前半分程の長さから、足の裏を全体を乗せる鐙に変ったということが分かる。
さて、平安時代の伊勢物語の13話に「武蔵鐙」という短い歌物語があるのだった。「むかし、武蔵なる男、京なる女のもとに、聞ゆれば恥し、聞ねば苦し、と書きて、上書に武蔵鐙と書きておこせてのち、おともせずなりにければ」
東国に行った男が、京都の女に、耳に入ったら恥ずかし、耳に入れないのは心苦しいと記し、上書きに「武蔵鐙」とだけ書いて、手紙を出した。
当時の鐙は半舌鐙。武蔵鐙も半舌鐙だったようだ。
男は、京の妻に、東国で妻が出来たということを示すのに、馬に乗って左右に二俣かける鐙「武蔵鐙」ということばを択んだのだった。
しかも、足の半分だけ乗せる半舌鐙2つ。これで分かるだろうと。
京の女は、
武蔵鐙を さすがにかけて 頼むには 問はむもつらし 問ふもうるさし
と返事を書いた。
武蔵鐙を「さすが」でしっかり鞍に止めて吊るすように、あなたを頼りにしたいのだが、話を聞かないでいるのもつらいし、また問いただすのも煩わしい、どうしたらいいのか、といった内容のようだった。
「さすが」は、刺金、刺鉄と書かれ、鐙を鞍に留める金具だという。私たちのベルトでいうと、バックルの真ん中の真っすぐな棒のことを「さすが」といったのだ。
半舌鐙には、さすがのあるものと、鎖を連ねた2種類がある。さすがのあるもの(上左)が、武蔵鐙であることが、この京の女の歌から判明するのだった。
馬具の知識が、平安時代の女性たちにも良く行きわたっていたのだ。私は、ムサシアブミの花の名を、今頃になって知ったというのに。