ワニゴチの涙

 玄関正面の壁に、母親が生前に書いた「般若心経」を掛けることにした。多くの知人友人が相次いで亡くなり、なんだかこんな気分になった。

 

 玄関の棚には、ワニゴチの陶芸を置いた。どこに置こうか、あるいは掛けようか迷っていたのだが、この魚にはトゲトゲしい鰭が沢山あり、節分の折のヒイラギの葉のトゲの様に、鬼や魔物を寄せ付けない辟邪として恰好だ、と思いついたのだ。

 



 このワニゴチを見つけたのは、細の通う陶芸教室の先生の個展。器の外に、海や川の生物を象った作品を制作し、展示していた。温厚な風貌の女流陶芸家なのだが、モデルの選び方に偏りがあるのが面白かった。

パイク

ダツ

エイ

フグ

 人間に危害を与える凶器を持ったものばかりー。パイクは鋭い歯があるし、ダツは突進してくる槍のようだし、エイはナイフのようなトゲをもっている。そして毒を持つフグ。

 俄然興味がわいてきて、「どうして、危ないものばかりえらんだのでしょうか」と尋ねると、「ただ、カッコイイ形のものを択んで焼いているだけですよ」とのことだった。

 

 殆どが売約済みや非売品となっていたが、このワニゴチが残っていた。ワニのような大きな口をしているコチの仲間で、ヒレに刺されると厄介だが、食べれば美味しいし、危険度もこれくらいが私にはちょうどいいと思い購入した。

 

 ワニゴチは、比較的深い海底の砂に身を潜めて、目だけ出し、魚やエビ、カニの類が近づくと、大きな口を開けて一呑みするらしい。興味深いのは、コチの仲間だけに、性転換をする。生まれた時は雄ばかりなのだが、身体が成長し4-50センチの体長になると、雌に変化するという。

 このワニゴチは、体長33㌢。大きさから見て、オスからメスに変わりつつあるころではないかと、勝手に想像した。

 

 夜、洗面所に行ったとき、この雌ワニゴチが泣いているのに気づいた。左目から長い涙を流していたのだ。涙はわずかに動いている。

 ぎょっとして明かりをつけ、近くで観察すると、涙に見えたのは細い青虫だった。隣の花瓶の花木についていたものが夜、這い出して魚の上にやって来たらしい。

 

 辟邪の役割に加えて、悲しいことがあると代わりに涙を流してくれるワニゴチだったらいいな、と思いながら、そのままうっちゃって床についた。

 

 朝、出がけに見ると、涙はどこかに消えていた。