チシマキンバイと武田久吉

 山野草の展示会があったので、細と覗きに行った。

 前に書いたムサシアブミ(武蔵鐙)が多数出展されていたので、びっくりした。今年はムサシアブミの当たり年だったのか。

 以前、出展者の男性に話を聞いたことがある。展示会にあわせて山野草を育てるのは難しい、その時に花が咲いているものを出展することになる、そのせいか、その年の気候によってどうしても展示に偏りが出るのだそうだ。

 

 輝いて咲いているチシマキンバイに私の目が行った。梅花に似たバラ科の黄の花を「キンバイ(金梅)」と呼んでいる。

 北海道や本州の高地に分布しているので、千島金梅もおそらく「千島列島」で採集され、命名されたのだろう、と思った。

 

 簡単に分かるだろうと思って、戻って調べてみるとちょっと手間取った。

 北海道の雌阿寒岳で採取されたメアカンキンバイ(雌阿寒金梅)は、明治30年(1897)に牧野富太郎命名したので簡単に分かる。

 北海道、千島の植物研究をした札幌農学校、北海道帝大の宮部金吾(1860-1951)を顕彰し、さらに自分の名も入れ、学名はPotentill miyabei makino(1902)となった。キジムシロ属からコキンバイ属に改められ、現在はSibbeldie miyabei(makino) Paule et Sojak.(2009).に変わっているが、宮部、牧野の名は残っている。

 

 チシマキンバイについては、学名Potentilla megalantha.を手掛かりにした。この学名にはTakedaという名が付き、potentilla megalantha Takeda.が正しいようだが、なぜか抜けているものもあった。

 この武田こそ、武田久吉(たけだひさよし、1883-1972)。尾瀬の自然を守り、「尾瀬の父」とよばれている人物だった。

 幕末に活躍した英国公使館通訳(その後駐日公使)のアーネスト・サトウの次男で、母の武田兼とともに日本で暮らし武田姓を名乗った。山歩きが好きだったアーネスト・サトウとともに、日本の山々を登山し、1905年には日本山岳会の設立メンバーとなっている。

 1910年(明治43年)に英留学し、4年間ロンドンの王立植物園キューガーデンで植物学を学んだが、渡英の前年1909年7月に色丹島で植物採集。このときチシマキンバイを見つけ、1914年に島の324種の植物とともに、論文「色丹島の植物」で発表したのだった(この論文で理学博士号を取得)。

 チシマキンバイは海岸の岩場で生息するので、色丹島の海辺で採取したのだろう。

 チシマキンバイの千島とは北方四島の一、いまだ戻らぬ色丹島のことだった。

 

 山野草の会では即売会を覗いた。もちろんチシマキンバイは置いていないので、ベンケイソウの苗を買った。弁慶草。弁慶に謂れがある命名だそうだ。こちらの方はまず、枯らさずに花を咲かせないとならない。