9千歳・東方朔の役回り

 賓頭盧尊者の寿命7万年には及ばないが、9000歳生きるとされる伝説の人物が中国の東方朔。

 仙界で、1果3000歳の寿命を得る仙桃を3果も盗み食いしたため、途方もない長寿を得たとされる。賓頭盧が仏界の人であるのに対して、道教の仙人のような存在のようだ。

 漢の武帝に仕えた実在の人物で、文学に長けていたため帝に重用されたという。伝説化され、日本でも古くから親しまれた。

 

 妖怪漫画家の水木しげるは、東方朔が八百比丘尼と日本で出会う島根県の伝説を紹介している。八百比丘尼は人魚を食べたため800年生き続けるという伝説の女性。比丘尼も東方朔の桁違いの長寿にびっくりする。

 

 室町時代には、能楽師金春禅鳳が、「東方朔」という謡曲を作った。

 仙界の西王母(西方極楽無量寿仏の化身としている)を日本の帝王のもとに案内し、1果3000歳の桃の実を献上するという話だ。

 さきがけの三足の青い鳥が御殿の上を飛び回ると、光り輝く衣冠をつけた西王母が斑龍に乗ってやってくる。仙果を得た帝は、舞楽の秘曲でもてなしお礼をすると、西王母は満喫し、暮方龍に乗って西方の空に去ってゆく。

 東方朔は、西王母の植えた桃を食べたのが縁で西王母のエージェントのような役回りを仰せつかっているようだ。

 

 長寿ゆえの発想ができるせいか、江戸時代初期の文人、斎藤親盛(如儡子・にょらいし)は「可笑記」で東方朔の言葉に共感している。

「昔もろこしにて、九千歳を経て長命なりし東方朔と云へる人、友だちの公孫弘と云ふ人、身の上おとろへすりきりはてたる時、文をつかはす。」武帝に仕えた公孫弘は、匈奴相手に成果を上げられず一度辞職した。東方朔は落魄した公孫弘に手紙を出した。

 

「その文章にいはく、木槿はゆふべにかれてもあしたに栄ゆる、人も又長く貧しからじとかけり」。木槿という花は朝が盛りで夕べに萎れてしまう、儚い例えとされる。ところが東方朔は「かれしぼむと云へども、又あくる朝には、時をえて咲き栄え侍る」と長い目で逆にとらえ、衰のあとには盛が来ると楽天的な思考で励ましたのだった。

「人も又一たびおとろへ、おとろへては又さかりして、盛衰あるにぞ、長久のもとゐとしてめでたかりけれとなり」。実際、公孫弘はすぐ復帰し、武帝の丞相として活躍する。

 親盛は「おもしろき文体ならずや」と東方朔のポジティヴ・シンキングに共鳴している。

 

 水木しげるの紹介する伝説では、東方朔は斧を磨いて気長に針を作っている。「磨斧作伸針」という諺は、日本にも伝わって、努力と根気をたたえる「斧を針にする」という諺になった。

可笑記」には、その「斧を針にする」話も出てくる。

 弘法大師が諸国修行の折、江州すりはり峠で、斧を石にあてて摺っている老翁と会った。何をしているのか弘法が聞くと、翁は「針に仕る」。

「弘法はからからとわらひて『扨ていつの世にか其の斧をすりほそめて針にし給ふべき、其斧よりはそなたの命こそ、早くすりへるべけれ』」。

 翁は「なう御坊、其の心中にては学問なり難し、それ世間の無常老若さだめがたし、その上事を勤めんに、命期しられざるとて、空しくやむべけんや、さあらばさいふ法師の修行も無益なるべし」

 翁の言葉に、弘法もはっと気づくと、翁は「我は是れ此の山の神」といって光を放ち飛んで行った。「すりはりの大明神是なりと」。

 弘法大師がやり込められたこの大明神にもまた、長寿の東方朔の面影があるではないか。