猫股と蛭飼

 私の高校時代からの知人の歯科医院まで、細は1時間近く電車に乗って歯のチェックに行った。知人は年下の奥さんと2人で治療に当たっている。「今までは妻が一人前の働き、私は高齢で半人前の働きでしたが、最近は夫婦合わせて1人前です」と話していたという。

 精神年齢18歳程度と思って暮らしている私も、鏡を見ると老人なのだ。歯科医もその奥さんも、そして細もみな高齢者なのだ。ついこの間まで若かったのに、気づいたら老人になっている。

 

 小倉百人一首の撰者である鎌倉時代歌人藤原定家は、80歳近くまで生きたが、60歳を超えてから歯や口腔の疾患で悩んでいた。歯痛がもとで顔面が熱を持ち、顔の腫れ方もひどかったという。19歳から74歳まで定家は日記(明月記)をつけており、高齢になってから治療のことが頻出する。

 

 菊湯という菊を煎じたものを飲んだり塗ったりしたらしいが、蛭飼の治療も行なった。

「未時蛭飼」「未時又歯蛭飼」と、未時(午後1時から同3時ごろ)に蛭で治療をしたことが分かる。蛭に血を吸わせる「瀉血」。定家は歯周病、辺縁性歯周炎が相当悪化していたことが伺えるという。

 

 猫の化け物「猫股」を記した定家の「明月記」の日記を探していて、蛭飼に行き当たったのだった。

 天福元年(1233)8月2日。《一日中曇り。京の西北で雨が降ったらしいがこの辺は降らず。夜になる前、奈良から使者の小童が来て言うことには、南都で猫股という獣が現われ、一夜で七八人を噛み、死者が多数出た。ある者がこの獣を打殺すと、目は猫のようで、体は犬の長さだった》

 さらに《二条院の御時(1143-1165)京中にもこの鬼が来た。また雑人は猫股病と称す病に多くの者が罹って悩んだという。少年は京にもし猫股が来たら何とおそろしいことだろうと怖がるので、警護官に少年を送るよう言った》

 

 この猫股なる獣は巷間に広がっていたようで、徒然草(1331)にも出てくる。兼好法師は暗がりで猫股に襲われたという男の話を記し、実は飼犬が主人と分かって飛び付いただけと笑い飛ばしている。

 

 定家は翌日の日記(八月三日)の昼すぎ蛭で歯痛の治療をしたと記している。

「未時許蛭向飼、卅許飼」。顔や喉に三〇匹の蛭を食いつかせて血を吸わせていたのだった。

 私には山猫のような猫股より、30匹の蛭を顔にぶら下げた定家の方が強烈なイメージに思えるのだった。

 歯の治療は、現代の方がずっといい。知人は私が贈った私家本「猫といっしょに考える」を熱心に読んでくれていたという。

 (お送りしたい人も多いのですが、住所がわからないのです)