ヨネ少年の1882年彗星体験

 通勤帰り、駅を降りて休日の料理のために買物をして帰ろうと、ビルとビルをつなぐ歩道橋を行くと、東南の空にスマホを掲げる老若男女の混雑に出くわした。

 月蝕をスマホで撮影しているのだった。月全体が薄暗くなって、右下に小さな三日月型が輝くだけになっている。

 ここ数日、車窓から西の空に沈みかける金星や、家路を歩きながら、東の方角に月と、その近くのスバルがよく見えた。冬になれば空気が凍てついてもっと星が見えるようになると思っていたが、月蝕のことは忘れていた。

 

 ふだん夜空を眺める人は少ないが、天体「イベント」ともなれば、関心がこうして一気に盛上がるのだった。

 

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 神保町の古本店の100円コーナーで見つけた、野口米次郎ブックレットの第3編「松の木の日本」(大正14年、第一書房)に、詩人のヨネ・ノグチが少年時に目撃した、天体の大イベント、大彗星のことが出てきたのを、思い出した。

 

 愛知県津島で生まれたヨネの実家は、弘浄寺という寺に隣接し、幾百年も経った本堂前の松の木が、2階の丸窓からよく見えたという。妹を亡くしたヨネ少年は、四季折々、表情を変える老松を独り眺めて過ごしながら、雪舟、探幽が描く「風雨を呼ぶ」「百難に堪へる雄姿」「植物界の大蛇」のような「周囲を睥睨する」老松に、敬意と恐怖心を抱いたと書いている。

 そんな時、彗星がやってきた。

 

私の忘れることの出来ない追憶がもう一つある。私の追憶は九尺以上もあったと思はれる彗星に関係して居る。世界が終局に近づく印として彗星が現はれるのだと聞いた時、どんなに私の小さな胸は戦慄(おのの)いたであらう。」

 

 1882年(明治15年)9月の大彗星を目撃したと思われる。16日には、彗星が昼間も肉眼で見えるほどの明るさになり、27日ごろ、最も大きく見えたと伝えられる。

「9尺」は約2㍍70。彗星の尾が、6歳の少年の目には、それほど長いものに見えたこと、そして、彗星の出現が「世界の終局」の暗示として世間で受け止められていたことが伺われる。

 

 彗星というと、それから28年後の1910年(明治43年)5月のハレー彗星騒ぎが思い浮かぶ。彗星が近づくと、地球の酸素が消滅し、人類が滅亡するとデマが流れたが、1882年時にも大きな不安が広がったようだ。

 

夜も三更に近い時、母は眠れる私をゆり起こして二階へ連れ出し、例の丸窓を開けて弘浄寺の松の木を見よと語った。私は恐る恐る青臭い呼気を吐く老龍の松を見た……。老龍の角とも思はれる辺に妖魔の彗星が引懸つて居た。」

「私は、むしろ私の心眼は彗星の光に輝されて松葉の針がぎらぎら光って居つたやうに感じた。私はどうしてこの物凄い深夜の光景を忘れることが出来よう……それを思ふと、私は今も身振ひをして其夜の恐怖に撃たれる

 

 と、詩人は恐怖体験として回想している。普段から恐れを抱いていた老松に、妖魔の彗星とが重なって、少年の恐怖が二倍にふくれあがったようだ。

 

 おそらく、いま大彗星が来ても、天体ショーとして、子供たちもまたスマホを掲げて動画撮影することだろう。

 

 大人や世間の無知から来たとはいえ、恐れ慄きながら大彗星や松の木を眺めた、感受性豊かな明治の子供の体験がなんとも愛おしく思えてくる。

 

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(ヨネ・ノグチは、彫刻家イサム・ノグチの父親。渡米先の米西海岸で山暮らしをする詩人ウォーキン・ミラーの家に住み、自らも英語の詩集を出し、英ロンドンで高い評価を受け、国際的に著名な詩人となった。「野口米次郎ブックレット」は、100ページほどの小型本で、30集刊行された。1875-1947)