角力俳句と高田屋の俳人たち

 天明俳人、高井几董について触れてきたが、代表句は、勝った後の相撲力士を描いた次の句だろう。

 

 やはらかに人わけゆくや勝角力

 

 以前、神保町交差点近くの中華料理店で食事をしていた夜、ふれ太鼓が店内に入って来たことがあった。

 太鼓を叩いた後、明日、国技館で大相撲の興行が始まることや、初日の取組を、呼出しと思しき男が告げるのだった。

 江戸の名残りのふれ太鼓が、神保町界隈にも巡回するかと、意外に思いながら、いい体験だった。残念ながらその後出くわさない。

 

 近頃、だんだん相撲が好きになってきた。今場所は、小結に上がった霧馬山に注目しているが、初日から4連敗。

 

 十日ながら負けつゞけたる角力かな 

 

 明治初めに正岡子規門下の俳人中野其村が、10連敗の力士を描いているので、まだまだ4連敗という思いもある。

 

 其村は、あまり知られていない俳人だが、今私が通う事務所のすぐ近くに明治時代暮らしていたのだった。

 元前橋藩士の大畠豊水という人物が、官吏を辞めて、明治20年代後半に神田淡路町1丁目1番地の角地に開いた「高田屋」で、下宿住まいしていたのだった。

 

 この高田屋には、大物となる若き俳人が2人、明治29年ごろから暮らしていた。「キヨさん」高浜虚子、「カワさん」河東碧悟桐である。

 2階は10室ほどあり、階下も6、7室と、大きな下宿屋だった。3人のほかに、青木森々、下村牛伴、石井露月など、子規の門下の俳人が暮らし、連日俳句の議論をしていたという。

 内藤鳴雪、五百木瓢亭、梅沢墨水、吉野左衛門らも顔を出し、「俳句下宿」と言われていた。

 

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今の淡路町交差点。左手の角に高田屋があったと推定している



 明治時代に「野球」を紹介して野球殿堂入りした子規だが、相撲の句も多い。

 わづらふと聞けばあはれや角力取/相撲取ちひさき妻を持ちてけり/

 年若く前歯折りたる角力

 

 子規門下の俳人たちも其村のほか、瓢亭が

 入念の仕切らち(埒)なや負相撲 

 

 と、入念な仕切りをしても効果なかった負け力士を描いている。(虚子も碧悟桐も露月も、相撲句を残しているが、略)。

 

 以上の高田屋での俳人たちについて、寒川鼠骨の「新俳句時代の思ひ出」(句作の道 第4巻、目黒書店、昭和25年)を読んで知った。

 鼠骨は、この高田屋で繰り広げられた恋愛ドラマのことも書いている。

 下宿屋の2階の6畳、日当たりのいい部屋に住む虚子、床の間のある部屋に暮らす碧悟桐との間の出来事だ。

 豊水には2人の娘がいて、長女は婿とともに炊事を担当、二女は客室の世話をしていた。その二女糸子をめぐってのことー。

 

「(糸子は)初め碧悟桐に意を寄せてゐた。碧悟桐が天然痘で入院した留守中に虚子へ靡いた。

  虚子病んで糸介抱す火鉢かな 其村

 当時同人間でもてはやされた句である。虚子は糸子と結婚し此処を出て根岸芋坂近くの音無川沿の家に借間し」た。

 

 高田屋の主人豊水は心を痛め、傷心の碧悟桐の縁談を探した。「幾もなく碧悟桐は主人の世話で、月兎の妹茂枝と結婚し猿楽町に家を持った。」大阪の俳人、月兎が妹との結婚を申し出る手紙を碧悟桐に送ったのだった。

 

 高田屋での恋愛沙汰は、これだけでは終わらなかった。「虚子病んで」の句を作った其村が、失踪してしまった。「高田屋の玄関右側の部屋で縫物を専門にしていた」女性に恋焦がれて何度か言い寄ったのだが、拒絶されたのが原因だと鼠骨は書いている。

 結局行方知れず。明治の俳句揺籃期の期待されていた才能が一つ消えてしまった。

 

「虚子去り碧悟桐出て後の高田屋は亦旧日の盛観がなくなった」と鼠骨。其村の失踪もそれに輪をかけたと。

 

 明治時代、俳人たちの青春ドラマが、事務所の近くで繰り広げられていたのだ。

 

 恋愛にも勝ち負けというものがあるといえばある。

「十日ながら負けつけたる角力かな」

 其村の句は、なんとも哀しく思えてくる。