栗山竹の花について

 小泉迂外の作品が掲載されていた俳句雑誌「やまと」(昭和10年1月号)は、栗山竹の花という俳人が主宰、発行人となっている。

 正直、この竹の花という人物がよく分からない。発行所の住所が駒込肴町(現・文京区向丘)で、道の向いに天ぷら屋「天安」があると消息欄に書いている。最近まで向丘2丁目に同じ名の天ぷら屋があったので、どうやらその辺りで暮らしていたと思われる。

 

 同号掲載の俳人野村喜舟(1886-1983)の文章「花咲く竹」が手掛かりとなった。喜舟は竹の花と一緒の仕事場で、ともに作句に精出していたという。喜舟は松根東洋城の国民新聞俳壇(選者だった)から、引き続き東洋城創刊の「渋柿」同人になったが、竹の花は「秋声派の高潮から石楠の方へ転じ」た、と記している。

 

 俳句雑誌「高潮」は、明治28年(1895)に文豪尾崎紅葉立憲改進党の政治家角田竹冷らが立ち上げた秋声会の流れをくむ雑誌のようだ。竹の花は、ここで俳句を始め、やがて「石楠」に移って主宰の臼田亜浪に師事したのだった。

 

 さて、喜舟はどこで仕事をしていたのか。年譜によると、昭和8年小石川の砲兵工廠から小倉砲兵工廠に転勤したとある。竹の花も、小石川の砲兵工廠で働いていたことになる。ともに軍属だったようだ。

 陸軍が明治12年に設立した「東京砲兵工廠」は、小銃主体の兵器工場で、大正12年大阪の砲兵工廠を併合したが、同年関東大震災で壊滅的被害を受け、小倉に順次移転をしたのだった。

 その跡地は、現在の東京ドーム、ドームアトラクションズ(旧・後楽園遊園地)、小石川後楽園だというから、相当広大な敷地だった。

 

 竹の花の人物像を喜舟が伝えている。若いころ仲間で牛込から品川沖に潮干狩に、傳馬船で往復した時のエピソード。帰りの船で竹の花は、「藤八拳」に熱中した。狐、鉄砲、庄屋のポーズをして勝負する宴会遊びのジャンケンだ。3度続けて勝てば勝ちとなる。「相手が降参するまでやり抜く意気組で一生懸命に、死物狂に」やり続け、ついには、隣を走る見知らぬ船の客とも藤八拳を始め、お台場-永代橋―両国橋と、気が付けば、神田川入口に差し掛かったと記している。そんな俳人だった。

 また、義太夫を趣味にし、同僚の家のお祝いで「忠臣蔵六段目」を語った思い出を記している。大声は町内に響き渡り、「勘平血判せよ」の早野勘平切腹のくだりでは最高潮に達し、ついに隣家の赤ん坊が泣きだした、と書いている。まるで落語に出てきそうな人物だ。

 

f:id:motobei:20200325135933j:plain

 巻頭の竹の花の「元旦三句」は、

枯木静けく元日の月ぬくとかり

犬と居て元日を門の草むしる

氷上の月裂くばかり初鴉

 

 句はあまり印象に残らない。