月の出づべき山もなし 

 遊びに来た3歳の孫娘と屋上で皆既月食を見た。双眼鏡でうまく月が見られなかったせいもあってか、飽きてしまい「かくれんぼしよう」といってぱたぱたと屋上を走り回る。月が全部隠れたと伝えると、「お月さんが可哀そう」といってまた走り出した。

 

 皆既食は長い時間続いた。皆既食は世界の広域で見られたので、月からすると、こんなに世界中の人に真剣に見つめられたのは久しぶりのことでないかと、と思った。

 

 

 しかし月は、少し前までは、もっと多くの人々に見つめられていたようだ。名月ばかりでない。弦月、三日月もまた。

 秋の三日月は酒がこぼれ、春の三日月は酒がよく入る、といった言い伝えがあるのだという。夕陽に続いて西に沈む三日月は、春の場合は月を盃に例えると酒がこぼれないように弧を背にして沈み、秋は盃を90度傾けた状態で沈む。月をよく観察し季節で異なる三日月の傾きを認知していたのだ(参考・website「月と月暦」)。

 

 月は東から出て西に沈む。満月は夕方東から出、朝方に西に沈む。上弦の月(半月)は昼間に出るため、夕方には南の空にあり、真夜中に西に沈む。下弦の月(半月)は、真夜中に東から出、昼間に西に沈む。

 月の出と月の入りを見ることできるのは、満月だけということになる。

 

 満月が出るのを待ち受けた古人の思いは想像以上のものがある。京の人々は東山36峰から上がる満月を心待ちにしていた。

夜とともに山の端いづる月影のこよひ見そむる心地こそすれ」(藤原清輔)

 

 東山36峰に「月待山」という名の小山がある。大文字山の手前の山で、銀閣寺、法然院の裏にあたる。銀閣寺では、庭に白砂を盛り上げた向月台、銀沙灘を築き、月待山から登る満月を待つ。

                           月待山(左上)と銀閣寺の向月台、銀沙灘(都林泉名所図会、寛政11年

 

 月がどの山から出るのか大きな関心事であったのだ。月が沈む山もまた関心を持たれるようになった。

 源氏物語には、沈む山を歌った和歌が多い。

里わかぬ影をば見れどゆく月のいるさの山を誰かたづぬる」(末摘花)

 

 1日で50分ずつ月の出が遅くなるので、満月より一日後の十六夜は50分後になる。紫式部は沈む十六夜の月の歌も作っている。

もろともに大内山は出でつれど入るかた見せぬ十六夜の月」(花宴)

 あけぼのを過ぎて沈む十六夜は、満月より遅いためよく見えず「入るかた見せぬ」と、歌っているのだ。紫式部が月のことを正確に観察していたことが伺われて興味深い。

 

 京と違って、私が住む東国では、月待山がない。

むさし野は月のいづべき山もなし草よりいでて草にこそいれ

                       (「玉造物語」の和歌)

 武蔵野は、月の出を待つ山がない、すすきの原から出てすすきの原に沈むばかりと、歌われた。「玉造物語」は、小町が玉造の里を目指して京を旅立ち、武蔵野に到着するまでを記した物語で、広い関東平野のすすきの原野を目にした小町は、月が昇り、隠れるべき山がないと、第一印象を歌っている。室町頃の作品と思われるが、江戸時代になるとこの歌が「月の入るべき山もなく」と変化して喧伝され、歌に合わせて武蔵野を描いた美術や文学が流行した。(参考・市古貞次「玉造物語の和歌について」=「かがみ」13号、1969年)

 

 代表的な江戸時代の武蔵野図屏風(田家秋景)を見ると、大すすきの原に見え隠れする農家、釣屋や、左手の富士、丹沢山塊の遠景とともに、逆三日月(下弦の三日月)が山のない空間に沈む不可思議な様子が描かれている。迫力ある絵ではあるが、逆三日月は昼の3時ごろ沈むのでこの絵のような様子は実際には見えない。

 上弦の三日月の間違いとしても、描かれた月は「酒がこぼれる秋の三日月」でなく、春の三日月のように「酒がよく入る」角度になった月である。

 江戸時代の屏風絵師は、平安時代の女流作家のようには、月を観察していなかったと結論づけるしかないようだ。それでも、私たちよりは月を見る時間は多かったのだろうとも思った。