「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」
この歌は、和歌ではなく室町時代に作られた俳諧連歌ではないか、と江戸時代後期の戯作者柳亭種彦が鋭い指摘をしている。
「用捨箱」(天保12年、1841刊)という考証随筆集で「俳諧の句を狂歌と誤る」と題して綴っている。
穎原退蔵「江戸文芸」でおさらいすると、俳諧連歌は室町時代の連歌師が余興で始めたもので、この場限りで打ち捨てられていたが、山崎宗鑑が面白いものを集めて整理し「犬筑波集」として刊行した。
前句の七七の題に対し、付句五七五で答える言葉遊び。
今でもよく知られるのが、
「きりたくもあり きりたくもなし」の前句に
「盗人を捕へて見れば我が子なり」と付けたものがある。
この前句には、別に「さやかなる月を隠せる花の枝」と付けたものも知られている。
月を隠す花の枝もまた、切りたくもあり切りたくもなしと逡巡させるものだというのだ。
種彦は、亡友の曳尾庵が、花鳥人物の絵にこの「犬筑波集」の句を散らした文禄慶長の頃の色紙を持っていたことをヒントに考えたという。大衆に人気を得た七七・五七五の俳諧連歌は、調べてみると、少しずつ変形しながら、やがて五七五七七の狂歌として扱われるようになっていたというのだ。
種彦は狂歌集の「扇の草紙」に掲載された中に、犬筑波集の俳諧連歌を見つけてピックアップしている。
「月かくす花の小枝の繁きをば きりたくもありきりたくもなし」
これは、まさに前に記した「きりたくもあり きりたくもなし」の俳諧連歌。「さやかなる月を隠せる花の枝」が変化して「月かくす花の小枝の繁きをば」に変わっている。(上図の右上)
同様に「扇の草紙」に絵入りで掲載されていたのが、「武蔵野は月の入るべき山もなし 草より出でて草にこそ入れ」。(上図左)
種彦は、これももとは「草より出でて草にこそ入れ」が前句の俳諧連歌だったのではないかと推測したのだった。
この前句に対しては、付句で、虫やら細き流れなどを登場させたものを想像するところ、「案外なる月を出して狭き句を広くとりなしたるなるべし」と種彦は述べている。狭い視界から、広々とした世界へ目を移した付句と評しているのだった。
それはともかく、もともとは前句「草より出でて草にこそ入れ」、付句「武蔵野は月の入るべき山もなし」の俳諧連歌だったと主張している。
「種彦の推定は十分首肯させるものをもっている」と市古貞次氏も認めている(「玉造物語の和歌について」)
さらに遡ると、「すすき」と「月が入るべき山のない武蔵野」は、すでに続古今集で歌われているのだった。
「武蔵野は月の入るべき峰もなし尾花が末にかかる白雲」
すすきの穂を、空の白雲だ、と見立てている所が面白い。
中院通方作の、建保三年(1213年)内裏歌合の歌とされる。この年は、東国には将軍実朝、執権北条義時がいて、武蔵野の武士を束ねていた。
「続古今集」では、この歌の少し後に、
「筑波峯の山鳥の尾の真澄(ます)鏡かけて出でたる秋の夜の月」
という藤原家隆の歌があり、武蔵野にも月の出る山として、筑波山があることを京人は認めていたのだった。