大阪の住吉大社になんだか親しみを感じている。私の好きな江戸時代の俳人大伴大江丸のせいらしい。住吉社の名物の松が枯れた時に相談を受け、大江丸は参詣客に松苗を買ってもらい植樹するためにアイディアを出した。松苗を買った参詣者に和歌、俳句、漢詩なども合わせて奉納してもらい、まとめて一冊の本にして発行するというものだった。
企画は大ヒットし松を守ることができたという。現在も4月にこの名残の松苗神事が行われている。
また、境内にある楠珺(なんくん)社では伏見人形の影響を受けて江戸時代に「初辰猫」の人形が生まれた。これも大江丸が関与した可能性を期待している。商売繁盛を願う人々に、毎月初めての辰の日に参詣してもらい、その都度猫のお守り人形を1体手渡すというものだ。48体揃うと満願成就するのだという。
いまでも可愛い土人形=写真上=が売られ、揃うと大きな猫が得られるらしい。奇数月は左手を上げた猫、偶数月は右手を上げた猫と人形も隔月に交替する。
大正時代に住吉に住んでいた彫塑家の今戸精司が、なんと住吉大社の末社のお守り人形を制作していたことを知った。
「住吉神社の境内、神館殿の前に、末社の侍者社(おもと社という)がある。通称おもとの神、田裳見宿祢と夫人市姫とを合祭してあり、縁結びの神として、良縁を求める婦人の信仰が厚い」。
「大正4年頃住吉東にいた彫刻師今戸精司により左図=上図=のようなミズラの結髪をした、おもと神と市姫の土人形が制作された。高さ7糎くらいである」(鈴木常雄「郷土玩具図説第6巻」、村田書店、1987年)
この土人形の後、今戸はさらに蛤に納まる小さな土偶=上図=を考案したという。蛤の貝の内側を緑に塗り、下記の歌を朱で書いた。短歌をものした今戸ならではのアイディアだろう。
「ふたはしらたたせ玉ひてすみよしのすむにかひあるおほもとのかみ」
(二柱立たせ賜いて住吉の住むに甲斐(貝)あるおほもとの神)。
社殿でなく、公園前のおもと茶屋で売られていたという。
貝入りのおもと人形は、昭和15年の「郷土玩具展望上巻」(有坂与太郎、山雅房)にも記されている。
「縁結びの神と称せらる。神代姿男女二神を蛤貝に納めしものを普通とす。異種あり。但し同社とは関連なく土産品として製せらる。(大正四年頃、住吉東住、彫刻家今戸精司制る)」
人形は、神社に関係なくおもと茶屋で売られていたようだ。今戸の友人で詩人の百田宗治はこう書いていた。「今戸君が亡くなってからもう十年の余にもなるが死際はかなり窮乏のくらしをしてゐたやうに聞いた。そのうち妻女が公園の入口で万年青(おもと)茶屋といふのをひらいてゐるといふことを耳にした」(「蓬莱」昭和一八年、有光社)。
夫人が開いた茶屋で、この人形が売られたことになる。
昭和12年の追悼会の折に、百田は次のように述べた。「小生は今戸君は幸福な人であったと思ふ。ひどい貧乏をしてゐたやうですが、それはむしろあの人にはしあわせなことであった」「あの人が本当の神様になってゐるなら、きっとその背中から後光がさしてゐませう。後光がさしてゐてよい人です」。
今でも住吉大社で「おもと神」の人形が売られている。
今戸の人形のあとで作られた大正期のものは、屋根や柱のある箱に納まっていたという。現在のものは、そちらの人形を参考にしたのかもしれない。それには黒猫も付いていたというが、猫は消えている。
今戸原案のおもと人形が残されていないのは残念だが、今戸が考案した結びの神の人形が姿こそ変わってもいまに受け継がれていることには、すこし感慨を覚える。