梅、椿の鈴鹿関と伊藤伊兵衛

 細に誘われて先週、安行にある花と緑の振興センターに行った。早咲きの桜が満開だったが、私はまだ咲いている梅と、「春日野」(写真下)「武蔵野」「月宮殿」といった梅の和名に関心を持った。なぜ、こういう名が付いているのか。

 

 

 椿も多種が植わっていて、様々な名が付いていた。札を眺めていて、梅と同じ和名の「鈴鹿の関」(写真下)に気づいた。

 

 

 古代、畿内を守るために設置された三関の一つ。北陸との境の愛発関(越前國、福井県)や、不破関(美濃國、岐阜県)とともに東国とを分かった鈴鹿関(伊勢國、三重県)。

 それが、どうして、花の名に用いられたのだろうか気になったのだ。

 花の特徴を調べると、共通項がすぐ見つかった。

 

 

 

 椿 「鈴鹿の関」 赤い花びらに白斑がある。もとの品種「鈴鹿山」は赤一色。

 梅 「鈴鹿の関」 花びらの底が紅く、花びらの先が白い。

 

 赤と白の二色の花を「鈴鹿の関」と呼んだらしいことが分かった。

 

 晩秋の鈴鹿峠に行ったことはないが、紅葉の季節に冠雪が見られるという。蕉門の俳諧師各務支考の句に次のようなものがあった。

 

鈴鹿よりあちらは白し神無月

 

 峠の手前は見事な紅葉だが、峠の向こうは雪で白いという句らしい。

 赤に白の花びらは、紅葉に雪が混じる鈴鹿の景に見立てたということになる。果たしてそうなのか、これからも調べてゆくことにした。

 

 植木の里、安行の椿については、こんな記述を発見した。「日本一と謂われる安行の椿は、この頃(明治22年)百八種を染井から運んだものという」(前島康彦「江戸樹藝大成者伊藤伊兵衛とその一族」(昭和34年、首都緑化推進委員会)=写真下=

 

 安行の椿が日本一といわれていたこと、また、108品種もの椿(「鈴鹿の関」も含まれていたのだろう)がソメイヨシノの桜で知られる駒込染井から移され植えられた、とことが分かった。

 

 染井というと、学生時代染井墓地を通り抜けてキャンパスに通っていた、大変懐かしい場所だ。友人はトランペットの練習を墓石に囲まれながら熱心にしていたものだ。

 

 

 上掲書によると

種芸家とよばれる職種が都会に生まれはじめたのは、江戸では寛文・延宝(1660~1680)頃からで、当時下谷池ノ端、芝神明、四谷伝馬町、駒込染井附近に殊に多かったという事が、「江戸鹿子」(1687)に見えている。」

 そして「中でも染井の植木屋は規模最も大きく、多くの名手を排出(輩出)したことから、ここは江戸園芸の渕叢のごとくに世人にはもてはやされた」と書いてある。

 

 染井には藤堂家の下屋敷があり、草花を愛で他所から移しては植えていたが、花が終ると抜き捨てていた。それを見て、植木屋の伊藤伊兵衛は、それらの草木を集めては貯め、次第に霧島つつじ、椿、桜、楓、竹と種類が増えていった。

 

 四代目伊兵衛の時、将軍吉宗が染井を訪問した。霧島つつじ、阿蘭陀つつじ、楓、野田藤、白山吹、山杏や籠の寄植えを択んで帰ったという(代金銀三枚)。

 その後、吉宗の命を受けたものが、舶来の樹木を手に樹名を聞きに来た。「深山楓に近い」と返事すると、将軍から、折枝と実の形状を描いた画を求めたので、伊兵衛は盆栽にして献上。すると、今度は舶来の楓と深山楓の接ぎ木をしてほしいとの依頼が来たという。吉宗と伊兵衛のやり取りは、新撰武蔵国風土記稿に記されているそうだ。

 

 将軍から信頼を得たためだろう、享保5年(1720)9月には、将軍吉宗から、飛鳥山を観桜の名所にするために、伊兵衛に特命が下った。「飛鳥山植桜の時、(伊兵衛)政武が江戸城吹上の桜苗二七〇本を移して同月七日より九日までの間に現地に植栽する大役を奉じた」(上掲書)のだった。3日で270本、一日で90本という勘定になる。

 飛鳥山の桜というと吉宗の功績があげられるが、四代目伊藤伊兵衛の存在も大きかったようだ。

 



 都内は桜が満開。飛鳥山の桜も見事に咲いている。花の季節に、神保町の古書店で小冊子を偶然見つけ、伊藤伊兵衛の存在を知ったのが嬉しい。

 そして、簡潔な文章と、著者名を文章の最後の「前島康彦記」とだけしか記さなかった、造園家であり農学博士だった氏(1910-1988)に感心したのだった。