金印と藤貞幹の篆刻知識

 江戸時代中、後期の京都の好古家であり、考証学の学者でもあった藤貞幹についても、金印偽作疑惑を調べてみることにした。

 京都の佛光寺塔頭久遠院に生れ一度は得度したが、18歳になって還俗した。仏教を嫌いその後「無佛斎」を名乗った。

 

 

 自ら彫った「無佛斎」の印刻もある。吉澤義則氏は「芙蓉山人(高芙蓉)韓大年(韓大寿)等と交際して自然篆刻の術も修得したものと見え(る)」(「藤貞幹に就いて」大正11年、「国語説鈴」所収)としている。篆刻を頼まれた例として、貞幹と同じ日野家の流れを組む裏松家の当主固禅からの書簡を紹介している。

 公家の本流・烏丸家から、傍流の裏松経由で、貞幹に印章を頼んだものだ。

扨(さて)からす丸より被頼(たのまれ)候

 烏丸 コノ字ヲ一寸二分位ノ印ニシテ古文字ニテ御入

 印石も足下のかたにて御ととのへ、足下江(へ)乍御苦労(ごくろうながら)御ほり被下(くだされ)候様ニと被頼(たのまれ)候

 

 3.6㌢四方に、古文字で「烏丸」と印刻してほしい、縦横どちらでもよいが、石は貞幹のほうにお任せする、としている。

 このあと、「印石ハ至テよきニハ及不申候 中位の石ニてよろしく候」と、高価な石でなく中位のものでいいと付け加えている。当時の公家の経済状態が伺われて興味深い。

 また、「古文字ニテ」という念入りの指示は、古物への関心が公家の名家烏丸家にあっても高まっていたことが分かる。

 

 金印にもどると、天明4年(1784)に、福岡で「漢委奴國王」印が発見されると、現地では直ちに亀井南冥が「金印弁」で本物だと鑑定をし、それと連携するかのような速さで京都の藤貞幹が、上田秋成とともに本物とする金印考を発表した。この年、福岡藩では亀井が館長となる新しい学問所「甘棠館」が落成したばかり。その打ち上げ花火のため、「金印」を偽造して、世に名を挙げようとしたのではないか、貞幹も一枚かんでいたのではないかという疑惑だ。

 

 貞幹が集めた古物を掲載する「集古日録」(寛政9年=1797)を、国立国会図書館オンラインで開き、あらためて金印を眺めてみた。金印をもとに貞幹が、模刻したものだろうか。文字をみると、真印とは別物であることが分かった。

 いちばん気になった文字は、「委」。模刻のものは、〇の部分が切れている。

 

 下の「委」のように、丸の部分は切れてはいけない、一連の線でなければならないのだった。

 もし、貞幹が金印の偽造にかかわっていたならば、「集古目録」で、このような不完全な篆刻が掲載されることはなかったのではなかろうか。篆刻に関しては、専門家の高芙蓉などの知識には及ばないことが伺われる。

 たとえ、金印が偽造されたものとしても、亀井南冥が頼るほどの偽造能力を貞幹は持ち合わせていなかったようだ。

 

 貞幹は興味深い人物で、もっともっと知りたくなる。前に、天明の大火で紫宸殿、仙洞御所が焼失した際、若き光格天皇が御所の復古的再建を主張して、幕府の反対を押し切ったことを記した。その時、天皇から内裏の再建のため協力を求められたのが、裏松固禅だった。固禅は「大内裏図考証」30余巻と皇居年表6冊を作成していたため、御所再建にあたって大きな任務を与えられた。

 その裏松に頼られ、史料を提供してきたのが、この藤貞幹だった。印刻を頼まれたように、裏松からは御所の再建にあたっても頼りにされたと考えられる。

 光格天皇は、国学儒学を唱える裏松(宝暦事件連座)ら公家の存在を背景に、古式を探り、復古を高唱するようになった。「王政復古」の原点だ。

 大衆文芸を取り込み二条家俳諧を始めた摂関家二条家に対しては、苦々しく思い対立した。

 光格天皇や御所の「復古派」の立場に藤貞幹もいたらしい。貞幹と、真葛が原の俳諧師たちとの立ち位置について整理すれば、この時代の京都の文人たちの理解が深められる気がしてきた。