高山彦九郎「京日記」から見えること

 上皇さまが皇太子のころ、来日音楽家の御前演奏会の手伝いで東宮御所に入ったことがある。ガラス張りの広間で、指揮者の渡辺暁雄さんの司会者で、両陛下と数十人のお客さんが鑑賞するなごやかな会であった。

 演奏後、歓談の場があって、招待を受けていた旧知の音楽学者と会って、「どうしてここに」とお互いびっくりした思い出がある。

 企画した人物は、著名な海外の音楽家を介して、一歩一歩、東宮の侍従方と信頼関係を作り上げ、皇室でこのような催しを実現できたのだった。

 

 今回、勤皇家高山彦九郎の「京日記」を読んだところ、天明、寛政年間に光格天皇の内裏に出入りしていたことにいささか驚いた。上野国太田市)の郷士の二男だった彦九郎は、人間的な魅力のある「人たらし」だったとしか思えない。

 彦九郎が天明3年に初めて禁裏に入ったのは、前に記した篆刻家高芙蓉のおかげだった。国学を通して親しくなった35歳の彦九郎は、前年暮に上洛すると高の家で寝泊まりした。高は、東坊城家の門人で公家たちに篆刻を指導していた。東坊城勘解由長官に紹介すると、気に入られたのだろう。東坊城の計らいで元旦節会の見学が出来た。

 

 彦九郎は、仙洞御所の前で拝礼後、江口図書宅で礼装(熨斗目、麻上下)し、下立売御門から、東坊城勘解由長官殿へ向かい布衣を纏った。唐門から禁裏へ入ると、杉山氏が案内役となって高辻家の家士のたまり場で大礼の開始を待ったという。

坊城殿に庭上に謁しけるに、兼てより知りぬとてしたしく、紫宸殿前庭上を引廻られて、御節会大礼の式を示されける

 東坊城殿がやって来て、かねてからの知り合いの様に振る舞って紫宸殿前庭=下図青枠=を廻り、大礼の説明をしてくれた。

 

 

月華門の辺りにて、平田若狭守なるものに、御節会拝見あるやうに頼みありて昇殿せらる」。平田若狭守に話が通っていて、前庭の西側の月華門=上図赤丸=から昇殿。「内弁は鷹司左府、殿上卿は大炊御門、広橋、滋野井、広幡殿ぞ見し」。彦九郎は感激して「手の舞ひ足の踏む事も知らずぞありける」という状態だった。

 後ろで若い公家たちが笑い、付き添っていた江口図書に指摘され、烏帽子の紐がほどけているのに気づいた。彦九郎は陣座(近衛の警護の場か)で儀式を最後まで堪能したのだった。超異例の待遇だ。

 

 次に上洛したのは、寛政2年暮。高芙蓉は江戸で没していたので、彦九郎は岩倉三位具選の邸に寄留した。高は彦九郎が天明2年に上洛の際、多くの公卿と知り合いになるように、高辻胤長の門下で学ぶようにと進言したが、同じ門下だった伏原二位、岩倉三位ら公卿と期待通り懇意になったのだった。

 翌年正月7日には、彼ら公卿のおかげで、禁裏での白馬の御節会へ入り込むことが出来た。

厨子所預高橋采女正(宗孝)の所に至る、狩衣を着して朱の唐櫃に従ふて、日の御門を入る」節会のスタッフに扮して参内したようだ。「平松三位(時章)殿岩倉三位殿と、予を尋ねらる」。公卿たちは彦九郎の様子を見に来た。

 

 二月には宿直で詰めた仙洞御所の梅花を二枝を折って、岩倉三位は彦九郎に土産として届けた。三月には光格天皇が「高山彦九郎といへるものをしれるや」と関心を持って公卿たちに尋ねていることを聞かされた。

 

 彦九郎は、琵琶湖で捕獲された「緑毛亀(みのがめ)」を知人志水南涯から手に入れると、「神亀」に違いないと岩倉三位に見せた。(中国の「渕鑑類函」に≪亀の毛のあるものは「文治の兆」であり、緑の毛があり甲が黄のものは「祥瑞」である≫と書かれている)。

 

 岩倉三位は宿直のとき、上皇の御桜町院に緑毛亀について話すと興味をもって光格天皇に伝え、彦九郎は南涯とともに亀を禁裏に届ける運びとなった。天皇は瑞祥であると喜んで声をかけ、亀は献上され仙洞御所の池に放養されたという。

 

 彦九郎の宮中への食い込み方には驚くべきものがある。

 

 幕府は復古思想を掲げる光格天皇の動きを警戒し、まず親王格の実父に太上天皇の尊号を贈ろうとした天皇に圧力をかけ(「尊号一件」)、周辺の勤皇家を捕縛した。対象になった彦九郎も追い詰められ、寛政5年九州久留米で自刃した。

 やがて、彦九郎は尊王の志士たちによって神格化された。

 篆刻家の高芙蓉が彦九郎を宮中に紹介し、その後の歴史に大きく影響を与えたことが分かる。芙蓉は、金印偽造に関与したなどというレベルの人物とは違うように思えてくる。