神保町の古レコード店に行って、猫に挨拶した。電気ストーブで暖をとっていた。少しやせていたが、元気なので安心した。前足を自動車事故で失ったので、外には遊びに行かない。
前の猫は、飼猫なのに夜な夜な町を徘徊していた。
店の裏口には、野良猫がご飯を貰いに来ていたのを思い出した。
「もう野良も来なくなりました」とご主人。
行政の方針もあって、野良猫は捕獲されて去勢。耳の一部を切って「サクラ耳」の猫として、飼い主探しをするようになっている。
夜間外出の猫は激減しているというか、いなくなっているようだ。
その一方で野良猫がいなくなって別の現象が起きている。「ネズミが出て困っている、と近所の店の主人が嘆いています」。とくに食べ物を扱う店なのだろう。
前の飼猫が、夜な夜な街を徘徊して鼠を捕っていたことが知られていたので、思い出話も出るらしい。
鼠を捕る猫について、最近知った話がある。
大阪の住吉大社の前を通ると、猫が鼠を捕らなくなるという話が、江戸後期の大坂で一時流布していたというのだ。儒学者の松井輝星が「它山石」に書き残している。
≪大阪の住吉大社の社前を通った猫は、100%鼠を捕らなくなるという。どうしても猫を連れて社前を通らねばならない時は、東の方に大回りして、社の後ろを通って行くとのことだ。≫
(吾浪速の墨の江の社前を過れば、其猫必ず鼠を捕る事なしと云。此故に已む事を得ずして猫を連れて墨の江の社前を通ること有時には、遥かに東へ迂道して社の後を過ると云。)
江戸時代に、鼠捕りが使命で飼われた猫が、鼠を追わなくなるのは困った事だったに違いない。
松井輝星は、中国の江南の鎮江・金山寺でも似た話があるのを見つけて、興味を持ったようだ。「酉陽雑俎」に記されていたもので、
≪猫は揚子江の金山寺を通らない。通ると、鼠を捕らなくなるからだ。≫
住吉大社と同じような話が、どうして、江南にもあるのだろうかと、輝星は不思議に思っている。住吉大社、金山寺と宗教は違うが、門に近づいたり境内に入ると、猫が鼠捕りの能力を喪失する。
おいおい、理由を探ってみようと思う。
輝星は「酉陽雑俎」で、≪猫が前足で顔を洗う際、前足が耳元を通る時は、近いうちにお客が来る≫という話を見つけて関心をもっている。猫好きの儒学者だったかもしれない。