正午牡丹と眠り猫

 洋画家の中川一政画伯が、「正午牡丹」という文章を書き、著作の表題にもしているのを知った。

 

 前に、牡丹と猫の取り合わせの画題に触れ、本来は正午に咲きほこる牡丹を表すために、時計代わりに猫の目を添えたのが始まりではないか、という鶴ケ谷真一氏の文章を紹介した。



 中川画伯は、「猫の眼は昼になると瞳孔が細くなる。支那には正午牡丹といふ画題があるが、牡丹と猫を組合わせてそれは昼の満を持した静かさを描くものである。/正午牡丹とは何とうまく命名したものだろう」と、昭和9年にこう書いていた(武蔵野日記)。

 中川画伯も、正午の静かさを表現する、猫目時計のアイディアに関心を持ったことが伺われる。

 

 中川画伯がこういうからには、正午牡丹について、先人が触れたものがあるに違いない。辿って行くと、天保5年の原双桂「過庭紀談」に行き当たった。

 原双桂は、

世上に牡丹の下に猫の眠り居る図をゑがける多し、是亦彼図の元来の起りに相違せり」と、牡丹に眠り猫を配した絵を注意するものだった。幕末ごろ、牡丹に眠り猫が添えられたものが多かったことが伺われる。

 続けて、

唐の時、或人さる能画師の正午の牡丹を図してくれよと頼みしに、右の画師牡丹をゑがくは易きことなれども日中正午の趣をいかがして書き写さんやと、色々工夫をめぐらして思ひ付き牡丹の傍に猫をあしらい、その猫の眼を正午の眼にゑがきて、それにて正午の牡丹と云ふ処をあわはせしなり

 唐の画師の創意から生まれた「正午牡丹」の逸話を記し、「眠猫にゑがきては何の面白きこともなし」と、猫の瞳孔が描かれない眠猫では意味がない、注意喚起しているのだった。

昭和33年「正午牡丹」

 

 さて、中川画伯は「正午牡丹」で猫はそもそも好きではないと書いている。飼っているうちに猫の奥深さに気づいて「ねこの魅力にだんだん惹かれて来るやうだ」と文を締めているが、少し無理しているように見える。

 それよりも、「正午牡丹」に書かれた、猫をめぐる画伯の子供たちの様子が大変面白い。

 昭和9年ごろ、中川家では、鼠が増え、猫を飼う必要が出て来た。子供たちは祖父母の家に迷い込んだ三毛猫を連れて帰った。抱いたり、紐をつけて牽いてかまっていた。

 よほど嬉しかったのだろう、6歳になる子が、翌朝起き抜けに祖父母の家に行き、「お祖母さん、昨日の猫はとても利口な猫だと見えるよ」と報告したという。

 訳をきくと、「今日僕が起きると鼠を三つもとったよ。そして一匹口にくわへ二匹を両脇にかかへて戸棚から出て来たよ」。

 祖母は感心して、祖父にも伝えたが、伝え聞いた母親が調べると、事実でない。「六つの子は空想で物を話す癖がある」ので、こんな報告をしたのだった。

 祖父は「俺も後で変だと思ったよ。一匹口にくわへ両脇に一匹づつ挟んで猫はどういう風にして歩くだろう」と。

 六歳の子の空想とは違って、三毛猫は一日中寝てばかり。一匹も鼠を捕らなかったため、一か月後捨てられてしまったという。

 

 文章には書かれていないが、六歳の子供は、捨てられたことを知って、相当悲しんだろうなと、想像できた。