南陀伽紫蘭(なんだかしらん)の描く猫

 江戸時代の戯作者に「なんだかしらん」という人物がいる。「南陀伽紫蘭」と表記している。

 現代にも「南陀楼綾繁」(なんだろうあやしげ)という物書きがいるので、ご先祖のような名前だと興味を持っている。

 

 紫蘭は、もともと画師として知られた窪俊満(1757-1820)で、江戸絵本を仕切っていた北尾重政の門下だった。仲間には、北尾政美(鍬形蕙斎)、北尾政演(山東京伝)がいた。

 

 「なんだかしらん」が猫の絵を描いていないか、時間があいたので調べて見た。

「鎌倉志」(文化13年、1816)を俊満名で刊行し、①「金沢文庫 稱名寺ノ唐猫」と②「円位上人里童ニ銀猫をとらす」つまり、西行の銀猫を描いていた。

 唐猫は、舶来の書籍を収めた金沢文庫で鼠の害を防ぐため、明から連れてこられた猫たちだ。文政8年(1828年)刊行「愚雑俎」で田宮仲宣が唐猫は尾が長いと説を出しているように、俊満の唐猫も尾が長い。俊満の好みなのか、長い尾の先はスプーンのように広がっている。

 

 猫も表情は可愛いものでない。むしろ不気味だ。後足の爪も鼠を捕るために鋭い。

 興味を持ったのは、瞳が針のように縦線になっていて、猫目時計で「正午」を指していることだ。但し正午ではない。

 

 

「唐猫の目にしる時は 六浦潟金沢文庫 明(あけ)るはつはる」と一筆菴敬帖(不明な人物)の歌を載せ、唐猫の目で時が分かるのは、六浦潟の金沢文庫に、新年が来た時だ、と唐猫は正午でなく、元旦の初日出でも、こんな瞳になるのだと新機軸をだしたのだった。

 

 ②の西行の銀猫は、蹲っているようすは見て取れるものの、残念ながらぼんやりしている。

   

 同じ弟子仲間の政美(鍬形蕙斎)が、「人間万事西行猫」(寛政2年、1790)で描いた銀猫(いつでも飛びかかれる姿)のような、画師独自の銀猫の解釈が伺われない。

 

 南陀伽紫蘭黄山堂の名で書いた黄表紙「通鳬寝子の美女(かよいけりねこのわざくれ)」(安永7年、1778)には、化け猫が登場する。人間を食い殺した猫又が美女に化けて妓楼を経営する話で、やがては善光寺阿弥陀仏の御威光で退治されてしまう。

 絵は、自分では描かずに、豊章(喜多川歌麿)に任せている。猫又だけに、尾っぽが2本に分かれている。花魁の飼猫を描いた歌麿が、凶暴な猫又をものしたのも興味深い。

 

「なんだかしらん」は、さほど猫好きでなく、画師としても猫の造形に興味がなかったのではないかと、つまらない結論にたどり着いた。世の中、猫好きばかりではないと。