川田順の銀猫探し

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  彫刻家松山秀太郎氏の言葉をきっかけに、西行の銀猫探しを始めることにした。

 どんな結果が待ち受けているか。期待外れの可能性もある。

 

 同氏の書簡の確認から始めると

 

西行が頼朝に貰った銀猫を門口で何の屈託もなくただちに子供に与へたと云ふのは傳説ですが川田順氏の西行研究では実際はさうでなく西行が寂滅してから西行の手許に残って居たと書いてあります。」(「石井鶴三往復書簡集Ⅲ」

 

 川田氏の「西行研究」探しから始めよう。

 松山氏の書簡は日時不明だが、昭和16年8月29日の石井鶴三書簡の返信なので、8月末か9月頭のものだろう。

 

 その前に、川田氏が発表した西行研究を探すとー。

 「西行」       昭和14年 創元社

 「西行2 西行研究録」昭和15年 創元社

 2冊が上梓されていた。

 

 歌人川田順氏は、住友財閥の住友総本社の常務理事を務めた財界人でもある。その後有名になった「老いらくの恋」が始まる前のことだ。

 

 注文した「西行」が富山県の古書肆から届いた。

 昭和15年8月31日11版。1年で11版、相当売れたようだ。

 本に紙が挟まっていた。金沢・香林坊の「正文堂書店」のチラシだ。

「☛学生諸君の店現る―――参考書 最高価買入開始

  ☆新舗當店は今後参考書類を大々的に賣買致します

  ◇御買入價◇賣價 断然他店ノ追從ヲ許サヌ 

   大勉強奉仕

  薄利を以て皆様の店として張り切ります

  ぜひ一冊でもお譲り下さい

  香林坊(廣坂筋)

  参考書と各専門書  正文堂書店  電 六七四 呼」

 

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 さらに、貯銀協会作成の銀行用の「所得資料箋」の一片。裏に女性(アヤ子さん)の筆で短歌が書かれていた。

 

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 チラシの地図を見ると、店の右向かいには旧制四高(現四高記念文化交流館)。四高生相手の書店だったようだが、本は短歌を作る銀行関係の女性が購入したらしい。こういう女性が「西行」を買って、第11版までなったのだろうか。チラシは、本が刷られた昭和15年8月からあまり経っていない時期の作成らしい。

 

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 さて、銀猫を探さねば。

 川田氏が「信拠し得べき文献に依りてのみ作成」した西行の年譜で銀猫を探す。

 

「文治二(六九歳)

  初秋の頃伊勢発足、東大寺大仏殿再興の沙金勧進のため東海奥羽行脚に出づ。年たけて又越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山、風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思いかな(共に異本山家集、但、後の歌を戀の部に入れたるは誤謬)の詠あり、八月十五日鎌倉にて頼朝に謁し、翌十六日頼朝贈るところの銀猫を営外の小童に與へて去る(東鑑)、途に陸前名取郡笠島なる藤原實方の古墳を弔ひ、十月十二日平泉着(山家集下上)流罪にて同地に在りし南都の僧と中尊寺にて面談し遠国述懐の歌を詠む(異本山家集雑) …」

 

 銀猫を貰った時、西行は69歳だったこと、鎌倉へは東大寺大仏殿再興のための勧進(資金集め)の旅の途中だったことをまず確認。

 

 「さて、ちょっと余計の事を言ふが、此の有名な銀猫は、果して児童に呉れたのであらうか。同じく東鑑に拠ると、文治五年八月廿一日、泰衡平泉館に放火して逐電し、翌廿二日頼朝その焼跡を検分すると、坤の隅に倉廩一宇火を免れて残ってゐた。内部には、紫檀厨子・犀の角・象牙の笛・金の沓・金造りの鶴等々の珍宝眼をおどろかし、さうして「銀作りの猫」もあった。」

 

 何年か前に、私は平泉の蔵に入っていた「銀造猫」について書いた。「銀の猫が2つもあったとすると、よほど流行していたとしかかんがえられないが、そんな気配はない。/西行は、猫の像を、子供にあげないで、次にむかった平泉に土産にもっていたのではないか、とおもってしまう。/藤原氏西行、頼朝の関係、思惑などの考察は沢山あるけれど、いったい、どんな猫の像だったか、調べている人はいないのだろうか。」

 

 川田順氏は、それなりに調べていたのだった。

 

 「西行、墨染の袖に包んで、奥の秀衡へ引出物にしたか。伊勢から俊成の許へ浜木綿を送ってもゐる。なかなか、こまかく気のつく男でもあったのだ。沙金勧進と云へば古風に聞えるけれども、今日で云へば寺へ寄付の勧誘だ。まんざら俗才無くて出来る役目ではない

 

 住友財閥経理畑を歩んだ川田氏だけに、西行勧進の旅、金集めの旅は、俗才がなければできないことと見抜いていたようだ。銀作猫は、藤原秀衡への引出物として用いて届けたのではなかったか、と川田氏は考えた。

 

 しかし、この川田説は、松山氏の「西行の寂滅後も西行の許に銀猫があった」という川田氏の研究内容とは食い違っている。

 

 川田氏の次作「西行2」で、銀猫について新たな展開があったのだろうか。

 猫と共に、「西行2」の到着を待っているのだが、はたして。

 

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