西行の猫と明恵の仔犬

 もう7年も前、私は、西行法師が71歳の時に17歳の明恵上人と会った、と軽率に書いた。これが怪しいことが、今回の銀猫探索で分かった。

 

    2人が会ったことは、明恵の弟子喜海が書いた「明惠上人伝記」に記されている。そこで、確かめてみた。

 

 西行は出てくるが、対面の日時は書かれておらず、「常に来りて」とぼかされていた。

 明恵の許に、西行はいつも来ては会話し、歌を一首読むのは、仏像一体造るようなものだ、などと語っていた。

 長々しく、西行の言葉を記した後、西行の和歌一首を紹介。最後に、自分はその場に立ち会って一部始終聞いた通り書いたのだ、と喜海は付け加えている。「喜海、その座の末に在りて聞き及びしまま之を註す。」

 

 ついつい、信じてしまう。この文章から類推して、平泉から戻った西行が寂滅の前の文治四年か五年に、明恵と対面したという説が出て来たのだった。

 川田順もまた「西行」の中で、

「文治五年(七十二歳)」

此ノ年或ハ前年、西行栂野ノ高弁を尋ネテ

 山深くさこそ心はかよふともすまであはれは知らむものかは

 ト詠ジタル由、明恵上人伝記ニ出ヅ。事実ナラバマコトニ面白シ。」と記した。高弁は明恵のこと。

 

 この個所を読んだ宇野栄三氏が、川田の「西行」を書評して、明恵が栂尾に高山寺を建てたのは建久十年であり、その時すでに西行は他界していたと指摘した。川田も認め、事実でなかったと納得した。 

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 果たして「明恵上人伝記」は、いつ書かれたのだろう。ネットでは調べきれないので、「明惠上人伝記・平泉洸全訳注」(講談社学術文庫、1980年)を取り寄せた。

  平泉曰く。「本書は、上人の弟子義林坊喜海の著述らしく書かれてあり、一般にはそのように信ぜられてきた。しかしそれは仮託であって、喜海の没後、上人の徳を慕う人が、名を喜海に借りたに過ぎないものである

 というのは、伝記には、喜海没して30年後の出来事が書かれ、喜海なら間違うはずのない事実無根の記事があるため、だとしている。

読者に多大の感銘を与え、殊に江戸時代には、寛文五年(一六六五)、宝永六年(一七〇九)等、たびたび版を重ねて、ひろく普及したものである」と、正確なものではないものの、上人の考え、生涯を分かりやすく描いて流布した価値ある本ということになる。

 二人の対面に立ち会ったという記載についても、喜海は明恵より五歳年下であり、明恵の弟子になったのは建久九年(1198)。西行は建久元年(1190)に亡くなっていたので、「全く信じられないものであることは明瞭である」と断定していた。

 

 ただ、西行明恵とかすかなつながりはあるのだ。

 明恵は両親を亡くし、9歳で出家し、高雄の神護寺の文覚上人について修業した。

「井蛙抄」には、西行が高雄に文覚上人を訪ねた逸話が伝わっている。

  また「伝記」には明恵が文治四年16歳の時、東大寺戒壇院で具足戒を受けたと記される。東大寺再建のため平泉へ勧進に出た西行はこの年あたり、東北から戻っている。東大寺に報告に行ったに違いない。

 

 明恵が愛玩したとして、栂尾・高山寺に伝わる仔犬の木彫「狗児」がよく知られる。この「狗児」と、西行の貰った銀作猫が、宋代の影響を受けた写実的な動物像として、遠く響きあっている、というあいまいなことまで私は、前に書いた。

 

 明恵上人伝記を読むと、動物にまつわる話が沢山出てくるのに驚く。動物との交感能力が高く、修行の最中に、小鳥の異変、蟲の異変を感じ取って、侍者に小鷹に襲われた小鳥、水に落ちた蟲を助けに行かせたことが書かれている。

 神護寺へやって来た9歳の時、亡くなった両親を忘れられず、「犬鳥を見ても、我が父母にてや有るらんと思ひ」「或時、思ひかけず、犬の子を越えたること有りき。若し父母にてや有るらんと思ひて、則ち立ち帰りて拝みき」と書かれている。

 この挿話もまた、高山寺の仔犬の木彫から生まれた後世の作り話なのだろうか。

 

 銀猫探しは、狗児の謎へ続いてゆく。うちの猫は付き合いきれないという表情をしている。 

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