平泉の銀猫は高山寺の猫バージョンか

 
 1186年、鎌倉で、頼朝が西行に手わたした「銀作猫」
 1189年、平泉の蔵で、みつかった「銀造猫」
 
 どちらも銀で制作した猫だろう。
 当時日本には、猫の「美術」はない。
 
 だが、中国の宋(960-1279)にはあった。
 宋の写生画に、徽宗の猫、李迪の狸奴(猫)の絵がある。画家の岸田劉生が絶賛している。
  
「(誰か)李迪の狗や徽宗の雀、猫や、趙昌の牡丹や、舞擧の瓜や鼠を描く事が出来ようか」
「現に吾々の眼にふれる本當に生きたけだもの「狗」であり鳥であり雀であり猫であり花である。しかもそれ等のものは深い深いところから生きている」(宋元の写生画)
 
 徽宗の猫は、前脚を口元まであげて、舌で舐っている。
 李迪の猫は、トンボをみつめて、前脚を少しあげている。
 宋代の写生画は、動物の動きも自然で、動物らしい一瞬をとらえている。
 
 宋代の動物彫刻はのこっていないようだが、日本には宋の写生画を立体化したような動物彫刻がある。
 京都・高山寺の木彫「狗児」。
 
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 25㎝超の、子犬の像。両耳とも前にたらし、近くにいる母犬か、人間の飼い主をみつめて、あまえようとしているようでもある。
  宋の美術は日本にも大きな影響をあたえたのだろう。運慶快慶らの仏像や、頂相といわれる人物像など、写実彫刻を生み出した。金属の造形の世界でも、写実彫刻をもとに、写実的な作品がつくられたのではないか。頼朝が西行と会う前年、頼朝は京都から仏師の成朝を招いて、勝長寿院永福寺阿弥陀仏をつくらせた。
 成朝の仏師団には、冶金の担当もいたろうし、丈六の仏以外に、武家たちに、小品を作ったり、彫ったりもしたろう。
 
 高山寺明恵上人は17歳の時に、71歳の西行法師と出あって話している。
 西行法師がもらった「銀作猫」と、明恵上人が愛玩したという「狗児」が、とおく、響きあっているようにおもえる。
 
 どこかで、愛らしい銀の猫が発見されないものか。