銀猫と仔犬

 高山寺のことを調べていると、近所の神護寺とともに京の山中の一寺院でありながら、12-13世紀の文化発信の重要な拠点だった、と思うようになった。

 

 結論を急がず、一歩一歩進んでいくとー。

 

 運慶の長男湛慶が高山寺の木彫を手掛けた嘉禄元年(1225)には、絵図でも重要な作品が完成した。同寺の羅漢堂に納める仏画十六羅漢図」。詫磨派の絵師詫磨俊賀が描いた。

 

 詫磨派は、宋の絵画技法を取り入れた一門で、洛中に拠点があったが、俊賀は前年の貞応三年(1224)、高山寺神護寺から山道を下った梅ケ畑にある平岡へ工房を移転した。

 

 明恵の叔父で真言密教僧、浄覚(1147-1226)が俊賀のため平岡に屋敷を用意し、高山寺の長期にわたる仕事に専念させたのだった。(1232年には、「五秘密曼荼羅」を完成)

 

高山寺プロジェクト」とでもいおうか、高山寺充実のため、資金集めと技能者集めに辣腕をふるっていたリーダー格の浄覚という人物が浮かんでくる。

 

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高山寺の宝篋印塔(山川均「石造物が語る中世職能集団」)
 

 このころ高山寺に日本最古級の宝篋印塔が2基作られた。1220年頃の作とされ、今も明恵の墓(五輪塔)覆堂の周りにある(「明恵髪爪塔」と言われている)。福建省泉州周辺が発祥の石塔で、南都再建のため中国から移住した石工集団「伊派」が制作したものだ。

 

彫刻=「南都仏師」の流れの湛慶

絵画=詫磨派の俊賀

石造=伊派石工集団

 

 浄覚は、当時最先端の宋の技法をもった職人たち(あるいは芸術家)を、高山寺に集結させたことが分かる。

 

 この浄覚の親分格が、神護寺を復興させた文覚(もんがく)上人(1139-1203)。浄覚は文覚の弟子で、文覚はよりスケールの大きなプロデューサーだった。

 

f:id:motobei:20210718095458j:plain文覚上人(「神護寺中央公論美術出版

 

 文覚は、「平家物語」に登場する。北面の武士だった文覚は源渡の妻を誤って殺して出家。仁安三年(1168)、衰退した神護寺を訪れ、空海霊場の再建を決意した。荘園寄進を求め座り込みを行い、後白河法皇の勘気を被り伊豆に流されたが、そこで同じ流謫の身の源頼朝と運命的な出会いをし、平家討伐の挙兵を勧めたと伝えられる。

 京に戻った文覚は、後白河から荘園寄進の取り付けに成功、頼朝から寿永三年(1184)に寄進を受け、神護寺の修理、造営を進めた。

 

 この文覚に9歳から身を寄せ修行したのが明恵であり、交流があったのが、同じ北面の武士出身の西行だった。

 

 文覚は、頼朝の依頼に応えて鎌倉の寺院建設に協力した。

 頼朝が亡父義朝のため、文治元年(1185)に勝長寿院を建立した際、奈良の仏師成朝と京の絵師詫磨為久を招くことができたのは、文覚が間に立ったためだと考えられている。翌年には成朝の孫弟子の運慶が、東国へ行き、伊豆、相模の寺院で造仏に専念した。

 

 詫磨派の研究者の論文を読んでみた。

 

「詫磨派の活動を概観するならば一二世紀以前の詫磨派即ち第一期詫磨派は幕府関係の制作が多く、一三世紀以降の第二期においては、高山寺神護寺での活動が顕著になる。それは、制作依頼者が頼朝に仕えた文覚から、神護寺を復興し、高山寺明恵を育てた浄覚へと交代したことを示しているのであろう」(藤元裕二「詫磨派研究」平成21年)

 詫磨派の絵師の起用も、文覚(鎌倉寺院)―浄覚(高山寺神護寺)と受け継がれたことが分かる。仏師や石工たちも同じように考えていいだろう。

 

 私が注目するのは、頼朝が詫磨為久や成朝を鎌倉に呼んだ時期。文治元年は、西行に銀作猫を頼朝が賜った前年であることだ。

 頼朝が手に入れた銀作猫は、勝長寿院建立のため、鎌倉入りした詫磨派、南都仏師たちの集団から、渡ったものではなかったか。

 

 鎌倉の銀作猫と、高山寺の犬の彫刻は、文覚、浄覚とその周辺の仏師、絵師たちの中から生まれたものであり、やはりつながっていて、響きあっているのではないか、と思う。