仔犬と童子と湛慶と

 高山寺の仔犬について調べるのに、なにから手を付けていいのやら。

 

 栂尾の高山寺は、今は京都駅からJRバスで55分ほど。簡単に行けるようになった。昔は、高雄の神護寺の先にあるこの山寺は遠かったはずである。

 

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 大正11年に鉄道省が発行した「お寺まゐり」が手元にあるので、高山寺の項を探してみる。

 高山寺へのアクセスは、「神護寺参照」とあり、神護寺からの行き方だけ書いてある。「神護寺から槇尾西明寺を経て、更に四五丁下れば高山寺である」。簡単そうだ。

 

 だが、神護寺の項を見ると、「山陰本線花園駅から西北一里二十四丁、俥賃二圓、妙心寺、御室に詣で、宇多野、平岡を経て行くのである。道は殆んど平坦で徒歩でも一時間半で行ける」

 周山街道を登る。一里二十四丁は、約6キロ600㍍。しかも途中から登り坂がうねうねと続く。人力車は行ったようだが、徒歩で1時間半で到着するのは、よほどの健脚だろう。

 また、「嵯峨駅から清凉寺大覚寺を経て長刀坂を超え平岡に出ても行かれる。此方は前よりは十丁位は近いが、約十丁の長刀坂があるので俥は通じない」

 広沢池の北の長刀坂を上がれば、1キロショートカット出来、平岡八幡宮のある平岡で周山街道に合流する。

 

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 当時の大尽たちは、自動車で乗りつけたようだ。「京都駅から自動車に依れば賃金十二圓」。

 京都駅から「市内電車で北野に下車すれば、北野から二里には足りない。俥賃二圓」。こちらは中産階級の旅行者向きのようだ。

 

 とにかく、高山寺は山寺ではあるが、若狭から京都へ日本海の海産物を運ぶ動脈「鯖街道」の一画に建てられ、京都への交通の便は決して悪くない位置にあったと考えていい。

  明恵上人は1206年(建永元年)、後鳥羽上皇(15年後に隠岐へ流される)からこの栂尾の地を賜り、高山寺を創建したのだった。

 「栂尾の寺は高雄神護寺に比べると山間につつましく立つ寺だ」「松吹く風の音にもさうした高僧の住寺にふさわしい情趣を感じる」と川勝政太郎は、「京都古蹟行脚」(昭和22年)で寺の印象を書いている。さらに、

「開山堂安置の明恵上人坐像(宝・鎌倉)がある。京都博物館出陳の、善妙神立像・白光神立像(宝・鎌倉)は鎌倉時代の艶麗の小神像である。狛犬三対(宝・鎌倉)の中には、嘉禄元年(一二二五)の墨書が台裏にあるのが二つあり、小さいがすぐれた彫刻である」と、寺に伝わる木造、木彫を紹介している。

 

 善妙神立像  高さ31.5cm

 白光神立像    41.5cm

 獅子狛犬の一対  27.3cm  26.4cm

 

 これら小さな木彫と同じように、狗児の木彫も、高さは25.5cmと小さい。

 狗児もまた、高山寺所蔵の一連の彩色木彫の仲間と考えていいのだろう。

 

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 作者については、「近来の研究によれば、高山寺の善妙神像・白光神像・狛犬などの小彫刻も湛慶の作ではないかと考えられるようになった」(毛利久「運慶と鎌倉美術」昭和39年)と、湛慶という名を出していた。湛慶と言えば、鎌倉の写実彫刻の代表格運慶の長男(6人の男子がいた)だ。

 

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 狗児もまた、湛慶作とするのが自然であろう。湛慶作品を探してみると、高知・雪蹊寺に残る善膩師童子像(高80cm)に行き当たった。

 狗仔の縋るような眼は、この童子の眼ともつながるように思えた。狗児は、やはり湛慶の作ではないかと。