鳥獣戯画絵巻施入と湛慶と

 西行法師が鎌倉の鶴岡八幡宮源頼朝から貰った銀製の猫をめぐって、つらつらと書いてきた。銀猫は残っていないが、同時代の中国・宋の写実主義絵画の猫をもとに作られたと推測した。さらに、時代は40年ほど下るが慶派の仏師湛慶が制作した京都栂尾・高山寺に残る国宝の小犬の木像によって銀猫が偲ばれるのではないかと記した。

 

        



 その際、高山寺の開祖明恵上人の動物への偏愛ぶりを書いた。その高山寺に20種類余の動物の戯画が描かれた「鳥獣戯画絵巻」が今に伝わることがずっと気になっていた。明恵上人と関係があるのではないかと。絵巻は明恵上人の没後に寺に施入されたとのことで、そのままにしていた。

 

 あらためて、鳥獣戯画絵巻の論考を調べ高山寺との関係を自分なりにまとめてみた。

 

 鳥獣戯画絵巻は12世紀ごろ、天台宗鳥羽僧正覚猷(乃至は彼のような絵が達者な僧侶、あるいは宮廷画家)によって描かれた。動物を擬人化して祭りの様子を描くのは、他に年中行事絵巻の一部で見られ、当時動物の戯画が流行していた可能性がある。鳥獣戯画絵巻は、後白河法皇が宝殿(蓮華王院)に蒐集していた膨大な絵巻、書画などのコレクションの一つだったと考えられる。宝殿から仁和寺に宝物が持ち出された文書があり、この絵巻も仁和寺に移されたらしい。それを高山寺に持ち込んだのが、仁和寺の道深法親王(1206-1249)か、法助(1227-1287)で、彼らは明恵上人没後、高山寺に堂宇を建てて住持していた。おそらく明恵の十三回忌に経蔵の宝物を充実させるために、秘蔵されていた仁和寺から移したと考えられる。

 

 明恵上人の十三回忌は、1244年。高山寺の草創に関わった画家、仏師はどうしていたのか。詫磨俊賀は上人の没年(1232)に、高山寺三重塔の五秘密曼荼羅を制作しているが、その後同寺との関連は見つからない。一方、運慶の長子湛慶は、上人没後も同寺で仏像、天像の制作にあたり、1237年まで十三重塔の梵天帝釈天毘沙門天などを手掛け、1244年の十三回忌に間にあわせたのだろう高山寺羅漢堂の比丘形文殊像を制作していた。

 

 道深法親王、法助が高山寺鳥獣戯画絵巻を持ち込んだのは、動物を愛した明恵上人への追善にふさわしいと考えたためと想像される。そして、十三回忌に関わった仏師湛慶が、絵巻の施入にも関係したと考えられる。

 明恵上人が愛玩しただろう仔犬像の作者である湛慶は、十三回忌の7年後の1251年、鳥獣戯画絵巻が秘蔵されていた(と思われる)宝殿のある蓮華王院三十三間堂で千手観音坐像を制作し、一部焼亡した千体の千手観音立像の補作にあたった。

 法助らの伝手があって、晩年の一大事業が蓮華王院で行われることになったのかもしれない。湛慶82歳のことだった。

 

 明恵上人のために仔犬像を作り、鳥獣戯画絵巻の施入にも縁があった湛慶は、あるいは西行法師の銀猫についても慶派の先代の仏師から伝え聞いていたのかもしれない。