各務支考「祭猫文」の本文は、難解だ。誰か評釈をしているのだろうが、手元にない。
何度か、読んでいると、支考は、亡くなった猫をメス猫として描いていることが、分かった。
かつては華やかな恋もしたが、源氏物語の女三宮のように、尼となって李四の草庵で暮らしているという猫に。
〽秋の蝉の露に忘れては。鳥部山の四時に噪ぎ。
秋の花の霜にほこるも。馬嵬が原の一夜に衰ふ。
きのふは錦茵に千金の娘たりしも。
けふは墨染の一重の尼となれり。
花の色はうつろう。若く元気で美しい時は、あっという間に過ぎ去る。(鳥部山は、京都の風葬の地であり、荼毘所であった。馬嵬(ばかい)は、楊貴妃が反乱軍に殺された中国の地)錦のしとねに暮らす煌びやかな衣装の娘ネコも、出家して墨染の衣の尼ネコとなってしまった。
されば 柏木ノ衛門の夢。
虚堂和尚の詩。
恋にはさまよふ。欄干に水なかれて。梅花の朧なる夜。
貧にはぬすむ。障子に雨そそひで。灯火の幽なる時。
源氏物語、女三宮を愛した柏木の夢のように、メス猫は恋にさまよったが、今は、一休和尚がしたためた詩(貧人の盗みは偸盗戒にあたらない)のように盗み食いもする暮らし。
鼠は可捕(とらるべし)とつくりて。褒美は杜工部。
蛙は無用といましめて。異見は白蔵司。
昔は女三の宮の中。牡丹簾にかがやきて。花をまさにはやく。
今は李四が庵の辺。天蓼垣にあれて。実すでにおそし。
鼠を捕ると杜甫の詩集を褒美にもらったが、今は僧に化けた白狐に、蛙には構うなと戒められる。昔の暮らしは、簾に牡丹が輝くようだったのに、今は草庵の垣根またたびの実もしおれている。
といった具合だ。この解釈でいいのか、心もとないが。
長くなったので最後は端折るが、メス猫の来世を思い描きながら冥福を祈って終わる。とめの言葉は「如来畜生 南無阿弥」。
結論
同じ蕉門十哲でも、観察眼の鋭い、其角のように猫の生態を描いているわけでなく、支考の作は、草庵の猫を、出家した身分高い貴婦人になぞらえたところがポイントで、技巧が目立って、猫好きにとっては物足らない感じがする。
「祭猫文」は「風俗文選」(岩波文庫)に収録されている。