不思議な鳥瓶子と貞幹

 

「都林泉名所図会」(寛政11年)で真葛が原の俳諧師西村定雅、富土卵の作品を取り上げた秋里籬島のことを前に書いたが、彼は好古家で考証学者の藤貞幹とも接点があった。

 秋里は、安永9年「都名所図会」6巻を刊行し大ヒットを飛ばした人物。都の東西南北、それに南北の郊外の名所、計731か所を絵入りで紹介する見事な京都ガイド本を拵えた。天明7年には続編「拾遺都名所図会」を刊行している。

 

 ところが京都は天明8年に大火に見舞われ、大半を焼き尽くしてしまった。光格天皇も御所を焼け出されて、聖護院に避難。王朝時代の御所を再建する決意をした天皇は、2年後寛政2年復古調の内裏が完成すると、派手な還御パレードを催して戻ったのだった。

 このタイミングで、秋里は往年の内裏の地図「大内裏御図」、都の地図「花洛往古図」とともに、内裏の建物の由緒を記した「京の水・麟之巻」、京の街角の歴史を再現する「京之水・鳳之巻」の刊行を企画したのだった。

 

 秋里が頼ったのが、内裏の復古的再建にあたって、重要な役目を担った裏松固禅。長年に亘って「大内裏図考証」を手掛け、過去の内裏の様子を研究していた。そして固禅を支えた藤貞幹。

 

 秋里が貞幹を訪ねたことは、江戸の国学者立原翠軒宛の貞幹の書簡(寛政4年10月16日付)で知れる(「藤貞幹書簡集」文祥堂書店、昭和8年)。

 

京の水事作者秋里仁左衛門与申者右書藁持参仕候而私ニ校合致シ呉候様相頼申候得共少々存入之義御座候ニ付辞シ申候」

 

≪京の水の作者秋里仁左衛門(籬島)と申す者がその草稿を私の元に持って来て、他の文献などと照らし合わせて誤りがないかチェックしてくれないかと頼みに来たことがあったが、少々思うところがあって断った≫

 おそらく寛政2年の刊行前だったのだろうが、あっさり断ってしまった、と翠軒に伝えている。

 

≪裏松固禅公にも一昨年の春に、他の手蔓で面会を申し出たが、忙しいので、私の元に訪ねさせるから代りに会ってくれと言われた。故事故実などを好んで知りたがり、人となりを吟味したが信頼できる人物ではなく、口腹(利益)のために編集をしているように思えた≫と協力しなかった理由を語っている。

 

 なぜ、「京の水」刊行して2年ほど経って、経緯を語っているのだろうか。この前に翠軒に出した7月8日付書簡に、「京の水之事高野氏よりも被仰聞候」と記しており、翠軒からも同書について同様の質問があったと思われる。

 ちょうど、固禅が貞幹の協力の元、長年に亘る「大内裏考証」をまとめ、仕上げにかかっているさなか(寛政6年には天皇から同書の献上を命ぜられた)、どうして似たような内容の「京の水」が刊行されたのか関心を持たれたのではないか、と推測される。あるいは、貞幹の関与を疑っていたのかー。

 

 貞幹は、秋里の草稿について、南殿(紫宸殿)と中殿(清涼殿)と混同していたので、一点だけ注意したが、その後印刷したものを見ると草稿のまま直っていなかった、と不満を述べながらも、助言をしたことを記している。

 加えて秋里が刊行した「大内裏御図」「花洛往古図」については、≪秋里は困窮し、内裏御造営方へ筆耕の仕事で雇われて入り込み、内々に筆記していたものを二冊の書にしたもので、格別間違った箇所はないようだ。だが宮中の事だけに私どもが是非をとやかくは言えない。これは売買はできないことになったとようだ≫とも書いている。

 

 内裏御造営方に入り込むのは、秋里だけの力では無理だろう。貞幹が詳しく書いている所からして、貞幹自身この間の事情を知っていると思われる。あるいは、直接関与していた疑いも否定できない。

 

 貞幹は、「好古小録」「好古日録」の発行人の一人、出版元の佐々木春行(鷦鷯惣四郎)に住いを提供してもらうなど京の出版界との関係は浅くはなかった。

 

 あらためて、「京の水・麟之巻」に目を通してみた。専門性が問われるこの文章は、本当に秋里が書いたのだろうか、と思えた。また、貞幹の指摘した南殿と中殿の取り違えは見つけられなかった。

 



 むしろ、南殿(紫宸殿)前の、不思議な鶏の大陶器に目を奪われた。紫宸殿の正月節会の様子を描いたもので、正面の左近桜、右近橘の近くに2羽の鶏が立っている。

「鳥瓶子」「胡瓶四口」と記されていた。

 

 

 同書の文章を見ると、紫宸殿前方右の「安福殿」の説明で、「同書(江次第)曰  元日節会立胡瓶二口安福殿ノ東庇」とあった。

 元日節会には安福殿の東の庇下に、胡瓶が二口立てられる。重陽(9月9日)の宴では文台を安福殿の東壇の上に立てるとも。

「京の水」に描かれたのは、この「胡瓶」二口らしい。「四口」と記されているという事は、安福殿二口のほか、紫宸殿にも別の二口が立てられたということなのだろうか。随分巨大なものに描かれている。

 

 

 胡瓶を調べると正倉院に2点残っていた。ガラス製の「白瑠璃胡瓶」=写真=と漆の「銀平脱漆胡瓶」。ガラス製は、「そそぎ口がつき、とってをもった胴ばりの胡瓶は、もとより西方の形式である」。漆のものは「胴がまるく、台が分離してゐるうへに、そそぎ口にふたがつき、それが鳥頭をかたどってゐる。ふたにはくさりがつき、とってはいたってほそい。籃胎の漆器で、表面は銀の平脱で禽獣花卉をあらはしてゐる。その作は充分にするどく、唐土の作であらうとおもふ」(水野清一「考古学上よりみた正倉院御物」=昭和23年「正倉院文化」所収)。

 

 おそらく、これに似たものが正月の紫宸殿脇の「安福殿」に置かれたのだろう。別の瓶子が紫宸殿にも置かれたとしても、「京の水」に描かれたものは、度を越した巨大なものに映る。なぜこんな鳥瓶子が描かれたのだろう。これにも貞幹が、関わっているのだろうか。謎が広がって来た。