古墳時代の砥石

 砥石を軽視するなかれ。

 砥石は、千葉県市原市の稲荷台1号墳(北)から出土している。

 古墳中期の円墳で、「王賜」銘鉄剣が発掘された重要な古墳だ。

 

f:id:motobei:20200714113349j:plain入江文敏氏「佩砥考」

 

 砥石は長方形で、上部に孔があることから、帯から吊り下げられる「佩砥」と解釈されている。

   佩砥は、北方民族から中国経由で、朝鮮半島に伝わった。5世紀新羅の王族が着用したとされる、佩砥が小刀や魚形などとともに金属の帯に吊るされたものが出土している。実用でなく権威を示す「威信財」と解釈されている。

 

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 そのため、穴の開いた砥石が出土した日本の古墳、栃木県小山市・桑57号墳、埼玉県行田市・稲荷山古墳、福井県上中町・西塚古墳などは、新羅など半島の佩砥との関係で語られる傾向にあるようだ。

 

 私によくわからないのが、携帯用の実用の「提砥(さげと)」と、非実用の「佩砥」の区別だ。

 

 鉄刀、鉄剣には、砥石は必携であり、弥生時代後期に用いられた鉄鏃にも、砥石は必要なものだったと推測される。

 刀剣を研いだ砥石の研究が進んでいないところに、日本でも佩砥の出土例があって、半島との結びつきが強調されているように思われる。

 

 ヤマトタケルに戻ると、記紀に、ヤマトヒメが鉄剣とともに、火打石の入った袋をタケルに手渡したと書かれていることを考えてみたい。

 

 唐の時代に下るが、帯に吊るすものには、佩砥とともに火打石袋があったという記載があることだ。「唐書・車服志」によると、唐代の文武官は、「佩物七事」といって

 刀子

 砥石

 針筒

 火打石袋

を帯に下げる決まりだったという。

 

  もともと帯に吊るす実用の必携品に、砥石と共に火打石袋が存在したことが伺われる。

 

 佩砥が出土した「王賜」銘剣を所有した被葬者と同じように、ヤマトタケルもまた鉄剣とともに佩砥、あるいは提砥を持っていたのではないか。ヤマトヒメから「火打石袋」とともに、砥石を持たされた可能性を想像するのだ。

 

 日本の砥石の開発については、未解明なところが多い。前に丹波で触れた京丹波の砥石は、源頼朝のころに発見されたと伝わるばかり。

 丹波から京都、美濃へ続く「ジュラ紀付加体」の砥石型珪質粘土岩は、上質な砥石だという。「カミソリ砥は山城では鳴滝産が上質である。また高雄でも採掘、京都・鷹峯の金地院の領分からも産出、また濃州でも産出し、これを戸沢砥と云い、上質の砥石である」(古事類縁本草綱目訳義、砥石の条)

 

 濃州=岐阜南部の戸沢砥あたりが、伊勢に運ばれた砥石ではないかと想像が膨らんでゆく。

 時代は下るが、延喜式に、伊勢神宮が所持する砥石が書き記されている。

 砥石を砥、青砥、伊予砥と3種類に書き分けているのが興味深い。

 

 青砥は「丹波青砥」の名が残ることから、上記の「砥石型珪質粘板岩」。

 伊予砥は、いまも伝わる「安山岩」の砥石。

 砥は、凝灰岩の白砥か、あるいは、砂岩の砥石あたりではないか。

 

 ヤマトヒメがヤマトタケルに手渡したとしたら、美濃産の青砥だったろうと考える。

 

 稲荷台古墳1号墳から出土した砥石の素材はなにか。千葉からは砂岩性の砥石(銚子石・砥、飯岡石)が採れる。それとも粘板岩の青砥か、あるいは半島から舶来の砥石か。出土砥石の分析が進むと大変面白いと思うのだ。