岸駒の蕉翁涅槃図

 来年の干支、とらの絵といえば、岸駒(がんく)が知られる。江戸後期の京都で活躍した日本画家で、円山応挙とともに逸話の多い人物だ。

 

 虎の絵を好み、猫を参考にして描いていたが、清の商人から手に入れた虎の頭蓋骨がきっかけで、迫力ある虎を描くようになったと、いわれている。

 天明の大火で焼けた御所の再建で、障壁画を描く機会を得、京を代表する画家にのしあがった。画料が高く、自己顕示欲が強かったことで、京の人にひやかされもした。

 

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 藤井乙男「江戸後期の京阪小説家」には、京都の俳人西村定雅が岸駒に、松尾芭蕉の涅槃図を依頼したことが書かれていた。

 江戸後期の大坂の作家暁鐘成が、定雅の短い評伝を書き、そのことに触れているのを、藤井氏が紹介していたのだ。(暁鐘成は、犬の養育本を刊行し、愛犬の墓を建立したことで知られる興味深い人物)

 

「暁翁随筆(写本)に詳かなり、曰く 洛東俳仙堂定雅は京師の人にして、樗良の門に入り俳諧をもって世に名高し、嘗て丈草が所持せしといふ芭蕉翁の涅槃像の画図の一軸の事を、かねて聞き及ぶといへども、只名のみにして知る人だに無きが故に、文政六年十月画師岸雅楽助岸駒に乞て、是を図せしめ秘蔵せり」

 

 西村定雅は、当時東山の雙林寺近くに住み、住まいを「俳仙堂」と名づけ、芭蕉の命日(旧暦10月12日)に俳諧法要を行った。定雅の以前には、雙林寺境内の南無庵に住む俳人高桑闌更が芭蕉忌に偲ぶ会を開催、同寺に全国から俳人が集って賑わった。

 闌更の歿後(寛政10年)、定雅も同じような形で、俳仙堂で営んだようだ。闌更は、芭蕉木像を前に供養し、集まった者たちで俳句を作って追悼した。定雅もそれを踏襲したのだろう。

 さらに定雅は、芭蕉の門人の内藤丈草がかつて、芭蕉翁の涅槃図を所持していたことを知り、俳仙堂に新たに涅槃図を加えるアイディアを考え、当時人気の画家岸駒に依頼した、ということになる。

 

 文政6年というと、定雅は82歳、岸駒は70歳。定雅は老境に入っても頭の回転が良かったようだ。

 

f:id:motobei:20211217182522j:plain芭蕉像を彫った惟然(上)と、涅槃図を持っていた丈草

 

 俳仙堂の芭蕉木像について、藤井は「幻住庵址の椎の木で造った芭蕉の像を安置し」と記している。近江の幻住庵は、奥の細道の旅を終えた芭蕉が一時暮らした庵で、「まづたのむ椎の木もあり夏木立」の句を残している。芭蕉の聖地のひとつになった。

 芭蕉の没後、門人の広瀬惟然は、「幻住庵の椎の木を伐りて、初七日のうちに蕉像百体みづから彫刻し、之を望めるものに与えぬ」(惟然坊句集)と記している。

 大坂で師の最期をみとった惟然は、幻住庵に向かい、椎の木を伐って師の像を百体も彫刻し、望む人に与えたことになる。

 

 定雅が安置した芭蕉木像が「幻住庵址の椎の木で造った」のなら、惟然が彫った百体の一であったかもしれない。初七日に合わせて百体作ったというからには、大分小ぶりの像だったと想像される。

 

 その後、岸駒の涅槃図はどうなったか。暁によると、定雅の門弟朝陽が相続し、朝陽は門人の蔦雨に譲ったが、蔦雨は定雅の遺弟岱美に戻し、岱美は同門の鸞山に譲り、今も持っている、としている。

 

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 江戸時代の芭蕉涅槃図は、先に触れた鍬形蕙斎作の「芭蕉翁臨滅度之図」が知られるが、略画であるので、作風の違う岸駒の涅槃図の参考にはならない。

 

 惟然の彫った木像はもとより、岸駒の涅槃図も行方しれずだ。

 

 私が知らないだけで、誰かの手に残っているのだろうか。