ハンベンゴロウと林子平

 久しぶりに知人と渋谷道玄坂の店に繰り出した。若い男女の人波をかいくぐって、坂を上っていった。店の客は年配ばかり。女将さんもかっぽう着姿。渋谷にいることを忘れさせた。

 おでんがあったので、はんぺんを頼んだ。「ハンペン」と口に出しながら、「ハンベンゴロウ」を思い出し、ハンベンゴロウって、なんだったかと気になった。

 

 翌日、氷解した。べニョフスキ。VAN BENYOWSKYを、江戸時代の日本人は「ハンベンゴロウ」と呼んだのだった。

 

 MORITZ ALADAR VAN BENYOWSKY

   マウリツ    アダル   ハンベンゴロウ

 

 1767年、ロシアの強権支配に反発して立ち上がったポーランドの旧教徒らとともに戦ったハンガリー将官。捕虜になり、東の果てカムチャッカに流されたが、ロシア船を奪って逃亡。伊豆、阿波、土佐と日本の東岸に立ち寄りながら、ルソン、マカオに南下して脱出した人物だった。明和8年(1771)のことだった。

 

 幕府は知らず、連絡が届いたのはロシア船の琉球到着後。ハンベンゴロウから書簡が届いた長崎阿蘭陀頭役人が幕府に知らせてからだった。

 ハンベンゴロウは、やがてロシアが南下してくるので、日本は警戒した方がいいと忠告した。日本にも反ロシアの立場をとらせる狙いもあったと思われる。

 

 これが契機で、北方警護の議論が生まれる。天明(1781-1789)になると仙台藩林子平らが動き出す。

 

 

 上の図のような、南北逆さにした日本周辺地図は、最近よく見かけるようになった。大陸から日本列島がどう見えるか、地政学的な関心からだ。天明年間、林子平はこの逆さ地図を作り、また王政復古思想を抱いていた光格天皇もこの地図を目にしていたのだった。

 左上部の北海道の地形が細長く、樺太も島と認識されていなかったが、日本列島がロシア、満州ユーラシア大陸や、朝鮮半島と島々でつながり、日本海がそれらに囲まれた大きな湖沼のように描かれている。

 日本海の真ん中には、「朝鮮、琉球蝦夷幷ニカラフトカムサスカラッコ嶋等数国接壌ヲ見ル為ノ小図」の表記。

 

 林子平はハンベンゴロウの書簡、ロシア艦船の南下の事実を重く受け止め、日本を取り巻く状況を理解するための地図「三國通覧」を刊行したのだった。

 

 天明8年、光格天皇が「三國通覧」に目を通したと、京の書肆村田治兵衛から連絡があると、勇んで上洛した。中山愛親中納言と、内裏に食い込んでいた高山彦九郎と会い、彼らに懸命に海防を説いたが理解されなかった。失望して戻った子平は翌年寛政元年、老中の松平定信に説明するが無視された。危険人物としてマークされたようだ。

 

 寛政2年、高山彦九郎蝦夷へ出かけ、帰途仙台藩へ寄り子平を訪ねた。残る寛政の三奇人、古墳研究家で国学者蒲生君平も子平に会いに来た。そうしたこともあってか、翌3年子平は決意し、海防の重要性を説く「海国兵談」全巻の刊行に踏み切った。

 

 幕府は12月、仙台藩に子平の逮捕を命じて江戸に檻送させた。上記二書も没収処分。「取留も之なし風聞又は推察を以て異国より日本を襲候事之有べし趣奇怪異説等取交ぜ著述」したと、仙台での蟄居を申し付けた。

 

 黒船来航など開国を求める列強艦隊の到来を幕府は見抜けず、準備する機会を失った。子平は、蟄居のまま寛政5年6月21日に歿。その一週間後幕府に追われた彦九郎もまた九州で自刃した。

 

 ハンベンゴロウの方は欧州に戻ると自伝を出版。ドイツ作家が武勇伝を戯曲化。フランスでオペレッタとなり、自国ハンガリーで1847年にオペラ化された。

 ロシアと戦ったハンベンゴロウは、今も祖国ハンガリーの英雄として1975年にTVドラマ化、2009年にはTVドキュメンタリー、2012年に映画化されている。

 

 ロシアと東欧の戦火の波が、江戸時代中後期、日本にもハンベンゴロウによって届いていたことを、はんぺんをきっかけにしてあらためて思ったのだった。