左団次のページェントと歴史学者の証言

「漢委奴国王」の金印について、なぜ本物の金印が2つ存在するのだと、意味深な文章を書いた学者がいる。東洋史学の宮崎市定京大名誉教授(1901-1995)。92年刊行の新書の一節で目にした私は気になって仕方なかったが、詳しいことはその後も書かれずじまい。もっとはっきり書いて欲しかったと思う。

 

 先に、私は大正11年秋の京都・知恩院山門での市川左団次の野外イベント「織田信長」について触れた。10万人もの観客が集まる大々的な催しだったが、人波が前へ前へとなだれ込み、芝居はあっさり開幕直後中止になったものだ。

 

 この観客の一人に、京都帝大1年生だったこの宮崎氏がいて、この時の体験を文章にしていたのに気づいた。(「木米と永翁」所収の「左団次のページェント」=初出は「洛味」昭和33年)。宮崎氏は高校時代の友人と早々と会場に詰め掛けたのだった。青竹の柵の後ろの最前列で、柵につかまって公演を待っていたという。

するといつもの京都人の悪い癖で、後から来た者が、少しの隙間でもあると、そこを潜って前へ出ようとするものだから、それが全体としては大きな圧力となって前を押すことになる。私達は青竹につかまって、後から押す力を支えていたが、圧力がじりじりと高まってくるので少しく危険を感じ出し、残念ながら一番条件のいい立見席を放棄して、ずっと遠くに離れて眺めていた」。開始前から、危険を感じ取っていたことが分かる。

 この野外劇で演出助手をした土方与志の回想を前に引用したが、一か所意味が分からない箇所があった。

続々つめかける観衆によって、広場の周囲に張りめぐらされた竹柵や綱が破られて了った。押しひしめいてわりこんで来る観客の波のために、遂に前の方に演技の余地を残して坐っていた観衆が立ち上がった。/佐々成政の手勢が下手寺院から仮装して踊り出たのが、観衆の中に捲き込まれて了う

 

 この「前の方に演技の余地を残して坐っていた観衆」とは何だろう。若き歴史学者ははっきり書いていた。

太い青竹の柵で広く地面をかこって、一般人はそれから中へ入れぬようにしてある。内部はござを敷いて、特別の来賓席を設け、ひいき筋らしいのがポツポツやってきて、下駄をぬいでござの上に座り出す」。

 

 坐っていた観衆とは、特別席へ招待された観客だったのだ。

 

 宮崎の証言を続けると、「群衆の圧力が青竹の柵を押し倒してしまった。前列にいた者の中には恐らく倒された者もあっただろう。他の者は大波のように蓆をしいた特別席になだれこむ。今度は特別席にいた者が驚いて下駄をもったまま、跣足で山門の方へ逃げ込んだのである

 

 避難していた宮崎たちは「まアよかったというような安心感と、特別席に対する些かの反感や、それが潰れたことの快感めいたものを混じえながら、冷ややかに見物しておれた。係の人らが出て、何か叫びながら群衆を整理しようとするが、群衆はもう山門の下まで入ってしまって、一向に退散しようとしない。(中略)いつまで待っても再開しそうにないから、私達もあきらめて帰ってしまった」と書いている。

 

 30年後、宮崎は、昭和23年9月16日付朝日新聞に掲載された「演出側の責任者の一人」土方の追想の談話の切り抜き記事を発見して怒りをぶつけている。

 

 その記事には、「幕が上がると信長に扮した左団次が山門の楼上に現れ、大見得を切ったあと、階段からお稚児さんが下りて来たとたん、群衆はドッとなだれを打って稚児を取りまいてしまった。(中略)京都の観客は左団次より稚児さんに魅力があったのです。(中略)それ以来、芝居をするたびに不意に観客があばれ出しはしないかという恐怖がどうも抜けません」と記されていた。

 

 宮崎の反論は、「これではまるで京都市民は下等な観客で、稚児さんを見ると熱狂して我を忘れて舞台へとび出したという風に聞える。冗談ごとではない! 京都市民は稚児さんの行列なんぞは見飽きるほど見ている

 事故の原因は、京都市民の性格を知らずに安全対策を立てなかった主催者で、「電車に乗るにも降りるにも、その他何の時でも、後から押す癖があって、これだけは死ななきゃ直らない。こういうところへ青竹の柵などを立てて大丈夫だと思っていたのが間違いのもとであった」と続けている。

 

 (後ろから押す癖がある、と宮崎が繰り返し指摘する京都人の性質は、京都人の名誉のために書くと、今は消えてしまっているので同感は出来ないが、大正時代の京都では日常的な光景だったようだ。)

 

 怒りは収まらない。櫓の上で演出助手をしていた土方が、あの出来事で恐怖が埋め込まれて消えないと発言したことに、「土方与志氏のような人でさえも」「地上から数メートル高い所にいると、もう人民の感情は分からない」「民衆の悲鳴を歓声だと聞き違え、必死の避難を打ち壊し運動と勘ちがいして恐怖心をいだくようにまでなる」と批判している。

 

 当時の朝日新聞掲載の談話が、きちんと土方の思いが伝わっているのかも分からない(その後の、回顧と違っている)が、演出側と観客側と、2つの立場の人間の文章を読んで、実際の出来事がより鮮明に見えてくるようだ。