江南の蚕猫と僵屍伝承

 

 猫が死体をキョンシー僵屍)として生き返らせる話が、中国にあることを知ったのは、劉金挙・夏晶晶「近代初頭に至るまでの日本文芸における『猫』」(札幌大学総合論叢46号、18年10月)でだった。

 WEBで閲覧出来て、「確かな記録はないようであるが、猫に近寄られたら、死んだ人が大暴れをしてしまう伝説が中国各地にある」と書いていた。

 参考文献として「中国民間伝説集」(上海普通書局、1933)をあげていて、「確かな記録はない」中で、貴重な著書のようだった。

 都の中央図書館に収蔵されているらしいが、二の足を踏んでいたところ、澤田瑞穂氏「修訂鬼趣談義」(平河出版社、99年)で紹介されているのが分かった。

 

「中国民間伝説集」の猫の一節「僵屍と老和尚」。以下紹介すると。

 

ある人が死んだ。家人は遺骸を室内の木板の上に横たえておいた。夜間に一匹の猫がその上にきてから、たちまち僵屍に変じ、板の上から這い出して裏口から出ていった

(死体は立ち上がったのではなく、這い出ていったと書かれている)

 家人は内緒にしておいたところ、幾年か後、家の鶏や家鴨がいなくなる変事が続いた。「ある日、一和尚が訪れ、僵屍が鶏などを取って食うことを教えた」。

 和尚は家人を避難させて、僵屍と対決する。

「老和尚ひとり燭を点じ、箒を手にして室に坐する。夜半に物音がしてかの僵屍があらわれ、和尚に跳びかかる。身を躱して箒を投げつけると、僵屍は地に倒れて動かなくなった

 箒で僵屍を退治したのだった。

僵屍は四肢が硬直して自由に屈伸しないので、倒れると二度と起き上がれないのであった。翌日、家人が帰ってみると、瓜や歯は長く伸びておそろしく、膚には細毛が生えて白い冬瓜のようであった」。

新潟県など日本に残る、和尚が化け猫を退治する話とよく似ている)

 

 この話を採集した者によると、「この伝説は長江流域に流布する。人が死んだとき、猫が屍体の脇を通ると復活して、人を見ると抱きつき、人の口から息を吸う。吸われた人はすぐ倒れて死ぬ」と記している。

 揚子江流域でこの説話が広がっていたことが分かる。

 

 さて、揚子江流域の下流の南岸、江南には「蚕猫」の信仰が今も残っている。養蚕の天敵のネズミ退治のため、猫が飼われたのだった。蚕室に置かれて鼠に睨みをきかせる猫の土人形(泥人形)も盛んにつくられた。カラフルな「蚕猫」の人形は、今でも江蘇省無錫市恵山区、浙江省嘉興市海塩県で作られている。(「江南地方の泥蚕猫」日本玩具博物館HP)

 日本でも江戸時代に養蚕が盛んになると、養蚕守護の猫画や、猫のお札が栃木、群馬など各地で作られ蚕室に貼られた。

 山梨県では、泥蚕猫のような土人形の「お猫さん」が作られ下吉田(富士吉田市)で売られていたという。(山梨県立富士山世界遺産センター「富士山と養蚕」)

 

 江戸時代に養蚕振興の波が押し寄せた時、江南地方の僵屍伝承が、猫人形、猫絵、猫札などとともに、日本の農村に紛れ込んできたのではなかったか。

 

 養蚕を副業とする農家では、猫は役立つ一方で、通夜の時だけはご用心と、猫を避ける迷信が日本でも始まったのではなかったか。

 前に中国北京の風習、通夜で死体が立ち上がって暴れないように、足を大麻で縛る「絆脚糸(パンチャオス)」のことを記したが、糸が巻かれている織物の道具(杼、桛)を遺体の上に置くことで絆脚糸のかわりにした風習が、いつの間にか、猫を近づけないおまじないと思われるようになった。

 やっとここまで、たどり着いたが、まだまだ実証不足のようだ。