五代目團十郎と大江丸の行き違い

 初代、二代の市川團十郎と猫について調べているうちに、五代目の團十郎を大坂の俳諧師大伴大江丸が訪ね、その様子を紀行(あがたの三月よつき)に残しているのを知った。

 

 大江丸には、歌舞伎を句にしたものがあり、團十郎が出て来るものもある。

  七夕の今宵大星力彌かな

  寒の紅粉團十郎へまづまゐる

 

仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助を團十郎が演じたのは五代目が始めてなので、力彌の句も團十郎と無縁ではない。

 

「81歳」の大江丸が、大坂から東海道に沿って江戸に出、関東、東北を回る長旅をした際、隠居して白猿を名乗っていた團十郎を本所牛島に訪ねたのだった。

 寛政12年(1800)のこと。

 

 團十郎 1741-1806

 大江丸 1722-1805

 

 満年齢では、團十郎は59歳、大江丸は78歳ではなかったか。

 

けふは少々いとま得がほに、うし嶋にかくれすみける市川白猿が栖を訪ふ。ここは牛嶋のうしの御前のうしろ、庄やの地中にわづか三坪斗のわらぶきして、内に有けるに申掛ける。

 

 安永、天明、寛政年間に歌舞伎役者として風靡した五代目は、寛政3年実子に六代目を襲名させると、蝦蔵と改名、同8年には引退し、牛島の反故庵に隠居、白猿を名乗って狂歌師として活動していた。

 隠居4年目に大江丸は訪問したのだった。

 いろのしろき猿どのにそと見参申  大江

 とつはひや酒けふのもてなし    白猿

 

 冷酒を酌み交わしながら、反故庵の狭さに大江丸は驚いた。江戸の文華を一身に体現したあの人気役者とは思えない暮らしぶりだった。

 

三畳敷を寝所とし、夜具も其まま衣服もきたまま、おし入なし。居間は五畳敷台所は四畳也。」

「仏間とてもなく少なき棚をつり、香炉ひとつ紙にあミだを画き」

「其外調度とてもなく、五十余りの老女ひとり遣ひ」という有様だった。

 

 三畳、五畳、四畳と三間のわび住いについて、白猿は狂歌で答えている。

 

貞柳がすめば都といふた様(よ)に三畳五条四畳しきなり

 

 狂歌師の先輩鯛屋貞柳(1654-1734)の狂歌

うら家にもすめは都のこころなり 二畳三畳五畳六畳

 

 という二畳、三畳、五畳、六畳の小さな部屋も、二条、三条、五条、六条とまるで都に住んでいる気になるとシャレた狂歌で、自分の心境を伝えたのだった。

 

 生家が大坂の菓子商である貞柳を出したのは、大坂の飛脚商の大江丸への挨拶でもあったか。しかし、大江丸のある申し出は、きっぱりと断ったのだった。

 

 大江丸は、「うらぐちには水の用心と大札、これは洪水のうれい有場故也。あまりにおもしろさに我も一首と筆をとれば、いや外の人にはかかせ不申、我うちは我心のままといふて」、白猿に拒否された。水難のお札に興を感じて、一首書こうとした大江丸に、結構です、と断ったわけだ。

 

 大江丸は「机にかかれるさま一瓢一水のくらし、妓芸はとまれ気分のたかき所は初代の海老蔵よりもたかからむか」と感想を述べ、プライドの高さを感じたようだ。

 

「江戸人とユートピア」から

 

 江戸の研究者たちはこの逸話の「我うちは我心のまま」という発言を、隠居して「団十郎の役割から解放され、自分に忠実に生きる生活の拠点という強い自覚に支えられた反古庵は、自分が思うままに支配できる天地でなければならなかった」(日野達夫「江戸人とユートピア」77年、朝日新聞社)という白猿の思いの表れと理解しているようだ。

 

 私は、浅野祥子氏の「祐天寺と団十郎 ―初代~五代目の信仰の問題」(歌舞伎 研究と批評15、95年)を読んで、上記の逸話はそんな深いものではないのではないかと思った。

 論文は、五代目團十郎まで、菩提寺の浄土宗常照院とともに、同宗派の目黒・祐天寺とも深い縁を持ち、祐天寺にも多くの位牌が収められていたことを記していた。初代團十郎が舞台上で牛島半六に刺され、非業の死を遂げたことから、二代目が剣難除、水難除で知られる祐天上人に帰依したのではないかと、推測したものだった。

 

 白猿が裏口に貼っていた「水の用心と大札」は、まさに五代目も信仰していた祐天寺の水難除だったのではないか。

 

 一方、大江丸は水難除を面白く思い、地元の「海の神様」住吉大社を思い浮かべ、同社の水難除の功徳を一首したためようとしたのではなかったか。前に記したように大江丸は住吉大社と松苗神事などで大変縁が深かった。(大社では今でも「水難除守」が売られている)

 

 祐天上人に、住吉大社の横やりが入ってはたまらない。白猿がきっぱりと拒否した理由も、こう解釈するとすっきりすると思った。信心については譲りがたい。

 

此方からもたせたる酒肴にてもてなし、茶を煮てくれた斗(ばかり)也」と、持って行った酒、肴でもてなされたが、五代目は茶しか出さなかった、と大江丸は記し、すこし不満げであるが、誤解だ誤解だ、と伝えたくなる。