猫飯と犬車の話

 子供時代は夏休みになると、祖母の大阪の家に泊まりに行った。小学生の姉と2人きりで出かけたこともある。「こだま」は、当時東京―大阪間6時間50分かかったので、心細かった。出発前に、母が心配して列車に乗り込み、見ず知らずの隣席の男性に「この子たちは大阪まで行きます。どうぞよろしくお願いします」と声をかけたのを覚えている。

 

 何十年も前、俳優の北大路欣也さんが、子供時代に体験した東海道本線の話をしたのを聞いたことがある。昭和20年代の「つばめ」だったのだろう。東京-大阪間の中間、浜松駅に着くと、車掌が乗車している子供たちを集めたという。ホームに降ろして、一緒に体操し背筋を伸ばしたそうだ。それほど、東海道線の旅は長かったことが分かる。浜松駅の停車時間もたっぷりあったのだろうなと想像できた。

 

 明治35年(1902)の東海道線の旅の記述を見つけた。池邉藤園、増田村雨畿内めぐり」(明治36年、金港堂書籍)。出発時間は書いていないが、朝早いのを敬遠して、新橋から3番列車で出発したとある。午前中ではあったようだ。

 2人は静岡で駅弁を買っている。「名にし負ふ鯛飯弁当購ひて食ふに、その甘きに似ず、その体裁の猫の飯然たるもをかし

 猫のめしとは、キャットフードが普及する前の猫の御飯だった「残飯を連想するような混ぜご飯」をさしているのだろう。当時、鯛の混ぜご飯が珍しかったようだ。「わさび漬も名産なればとて、すこし打ち食ひて」とある。

 

 夜の8時半に名古屋に到着し下車。「名古屋ホテル」で宿泊している。翌朝8時50分に名古屋駅を出発し、午後2時20分に「京都七条駅」に到着。鴨川べりの宿、東三木本の「月波楼」へ向かった。2日がかりの京都までの汽車の旅なのだった。今から見ると、逆に贅沢な旅に思える。

 

 のんびりした京都入りだが、その後の2人の旅は実に精力的だ。京都-奈良―三輪―畝傍―吉野山―奈良―富田林―金剛山―柏原―大阪―有馬―箕面―京都―笠置。26日間、関西を飛び回っている。

 

 興味深いのは、吉野山に向かう記述だ。

葛にては生花楼といふ温泉に休ひ、荷物ども預け、直に車を雇ひて吉野山に向ひぬ。犬二疋各々へ綱曳す」。

 犬の力車に乗っているのだ。葛は、御所市にある、近鉄吉野線の葛駅の辺りだったろう。そこから山麓まで犬2頭が車を曳いたのだった。

この道中の人車には、大方犬を附けたるが、その犬は跡を見ずに走り、車とどめて客おるれば、直にその車に乗りて疲を息(やす)む

聞けば、成年未満の男子などよりも反て力勝れ能く働きて便なりといふ」が、犬たちは運び終えると、すぐ車の中に入って休んだ、というからに、犬にとっても坂道はきつかったようだ。

 国文学者、歌人の池辺は、欧州旅行先のベルギーで、ミルク売りの犬を実見していた。「牛乳を運ぶ、犬車を見たることありしが人を曳きて走るはこの辺の発明なるべし」と書いている。

 

 池邉の記すオランダやベルギーの犬車ばかりでなく、欧米では20世紀の前後から、犬を運搬に盛んに使いだしていた。市場まで車で肉を運ばせたり、鉄道レールの貨車を7、8頭の犬に引かせた(犬ぞりを思い出させる)アラスカの例も知られる。日本でも森林伐採のトロッコに犬を用い、行きは空のトロッコをひかせ、帰りは木材とともに犬も乗って戻ったという。一時、流行していたのだった。大正時代(1912-1925)になると、トロッコも機械式に変り、「犬トロリー」も消えたそうだ。

 

 葛―吉野山入口間の犬車も、この流行の中で位置付けられるのだろう。

 

 適した犬種、過重労働でない、首輪、ハーネスの整備。3点が管理されていたことを願いながら、葛の働く犬たちを想像した。