二代目團十郎の猫

 猫好き講談師、猫遊軒伯知(1856-1932)について触れたが、猫の講談では、桃川如燕(ももかわ・じょえん、1832-1898)という先輩の大物講談師がいた。

 鍋島藩の化猫など猫をテーマにした「百猫伝」の講談が評判を呼び、明治天皇の御前で口演したという。夏目漱石も如燕の講談に親しんだようで、「吾輩は猫である」の中で如燕の猫について一言触れている。

 

 如燕の「百猫伝・市川團十郎の猫」(明治18年、傍聴速記法学会)を読んでみた。口演を速記で写したので、発行元が傍聴速記法学会だったようだ。

 この市川團十郎は、猫遊軒の描いた初代團十郎でなく、二代目團十郎だった。ただ、こちらも妻に殺された歌舞伎役者小幡小平治の幽霊話に登場する共通点があった(猫遊軒は、如燕の講談をもとに、再構成したのかもしれない)。

 

 「團十郎の猫」といっても、こちらは小幡小平治の飼猫なのだった。

 小平治と猫の出会いは、まるで浦島太郎と亀。永代橋付近で子供が大きな三毛猫を荒縄でぐるぐる巻きに縛り上げ、川に投げ込もうとしていた。

「ニヤアニヤアと左も哀しげに泣き立て」ている猫を見て、小平治は「飛来り小供を賺(すか)し物を与へて、漸く猫を助け」た。猫は喜び纏わりつくので、家に連れ帰り、玉猫と名をつけて可愛がった。齢の行った猫だったが、大きな猫はさらに大きく育った。

 この猫は、やがて家で不穏な空気を嗅ぎつけた。小平治の妻お勝が愛人の太九郎を留守宅に上げて、夫の殺害を企んでいたのだ。玉猫は主人の危険を知って、お勝に飛びかかり喰い殺そうとしたが果たせない。お勝は、聞き耳を立てる猫を気味悪がって警戒するようになった。

 いよいよ沼での殺害決行を知った猫は当日、何も知らずに妻や太九郎らと魚捕りに出かける小平治を必死に止めようとした。

 

 玉猫は小平治の裾をくわえ、力をこめて引留めるが、主人はうるさい、ふざけるなと振り払う。なおも猫はくわえたまま離さないので、お勝が傍にある芝居刀で叩こうとすると、猫は暴虎のように睨み、お勝に飛びかかろうとした。

 小平治は猫に激怒し、「此畜生め、日ごろの恩を打忘れ、主人に向って敵対なすか、己れ打殺して呉んぞ」と刃を潰した刀を引き抜いた。

 玉猫は怒る主人を前に小く成て、小平治の顔を重々と眺め乍ら涙を浮べ、左も哀しさうに一声高く叫びたる儘何処ともなく、行方(ゆくかた)知れず成ました

 

 小平治が殺害されると、お勝と太九郎の前に、幽霊が現れた。襲われた太九郎は、刀を抜いて振り払うと、奥の間で寝て居たお勝の連れ子がギャーと声をあげた。のどを食いちぎられ、所々に「血に染む猫の足跡」が付いていた。「幽霊の姿を見(る)に、形は全く小平治なれ共、口元より目付の様子は、まごふ方無(なき)猫の相貌、察する所小平治の、怨霊三毛猫に乗り移りて、讐(あだ)を為さんと」したものだと太九郎は気づいた。

 

 やがて、お勝、太九郎らも食い殺され、猫は二代目團十郎=上図=のもとに現れた。かつて、團十郎が小平治を旅興行に追い払ったと恨んでいたためだった。團十郎は、「悪婦」お勝との結婚に反対し、小平治を諭すためにしたことだったと説明するが、なおも出る幽霊に、「側に置し、刃引の一刀抜手も見せず、躍り掛つて斬付れば、ギャッと一声叫びし儘、背へドウト倒れたる…鏡の背を改むれば思も寄ぬ一匹の大三毛猫が、血潮に染て死で居た」。やはり、小平治の幽霊は、三毛猫だったのだ。

 

 團十郎は弟子に言いつけて、「初代團十郎の墓の傍に、手厚く葬りましたが其後に、二代目團十郎が死去した時、丁度猫の墓を間にして、初代團十郎の墓と並べて、葬りましたから今に於て、猫塚の古蹟を存して居ります

 

 成田屋菩提寺は、芝公園の常照院で、ここに初代、二代目の墓もあったという。関東大震災後の墓地整理のため、昭和初めに青山霊園に移転したそうだ。

 

 ならば、移転前の常照院には、2人の墓に挟まれて猫塚なるものが本当にあったのだろうか。猫塚の存在があって、講談で初代、二代目と猫の話が生まれたのだろうか。

 

 講談のトリックにはまり込んで、虚実の境が分からなくなってしまったようだ。

 

 さて、令和の猫たちー。ネコジャスリの続報。

    

 ネコジャスリを贈った神保町の古レコード店の猫=右=からも大変満足しているとのメールがあった。