神田小川町で仕事するようになって6年ほど経った。幾つかの神保町界隈の古本、古レコード店、小川町周辺の飲食店、和菓子店に通って、馴染みになったのが、なにより嬉しい。気心が知れてくると、お互い掛け値なしで普段着で話が出来るようになる。
そして、裏道にある、とある古書店の100円本コーナーの発見。他店とは決定的に違う。このコーナーで見つけた本で、目を開かれたことが幾度もある。私の秘密スポットだ。
大正末期に大阪・天青堂から出版された「古俳書文庫」の存在も、このコーナーで知った。文庫の第7篇、京都の俳人・高井几董の紀行文「遊子行」「よし野紀行」が置いてあったのだ。四六判で100頁ほど。手頃なサイズで、オレンジ色のカバー。大正13年9月の発行だった。
几董は天明期に、蕪村と共に京都で活躍した俳人だが、私は猫の句(河豚好む家や猫迄ふぐと汁)探しをした程度で、俳書などは、頭の外だった。それが、読みだすと当時の俳人との交流や、名所の様子が知れてとても面白い。
古俳書文庫は20篇出ていて、件の大伴大江丸の俳日記も第10篇で出ているのを知った。
版元の天青堂は、大阪・東天下茶屋にあった。創立者は筑豊の資産家一族の栗田二三という人物。鞍手銀行の飯塚支店長をしていたのだが、炭鉱経営者に巨額融資したのが焦げ付き破産。筑豊有数の地主だった実家にも累が及んだ。二三氏は大阪に転居し、天青堂を設立して捲土重来をはかったのだった。
父が篆刻家であり、古典文化に親しんで育ったようだ。自らも出版社経営が行き詰った後、篆刻に生涯をささげている。出版も、蕪村、芭蕉の大冊など、採算を度外視したようなところが見受けられる。それゆえに、今でも価値のある本が生まれたのだと思う。
彼の篆刻も見てみたいものだ。
本には著者検印がなかったが、他の古書肆で手に入れた「秋存分」の方には、蔵書印があった。「栗山」と読める。
裏表紙をめくると、「広島文理科大学 栗山理一」と万年筆での署名があった。
俳句評論の国文学者、栗山理一氏(1909-1989)が学生時代(広島文理科大)に購入して読んだ本らしい。
同氏の「蕪村」は私もアテネ文庫(昭和30年)で読んでいる。
栗山氏が学生時代にこんな立派な印を持っていたというのも、ちょっと羨ましい。