福知山城の石垣にギョッとしたこと

 神田神保町三省堂書店2階で本棚を見渡すと、新書部門で鵜飼秀徳さんの「寺院抹殺」が売れ行き6位だった。明治維新廃仏毀釈を扱った文春新書。面白そうなので、早速読んでみることにした。
 神仏分離を決めた明治政府の動きを受け、維新後各地で、仏像、経典もろとも寺院を燃やすなど、熱にうかされたように仏教を排撃する動きがあった。著者は、今も地蔵の首が打ち落とされ、墓石が破壊された生々しい痕跡を丁寧に回った。
 廃仏毀釈が激しかった地域は、鹿児島、宮崎、水戸、松本、伊勢など限られていて、著者は現地取材で各々の理由を掘り下げていくー。
 
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 本を手にしながら、思い出したのは、丹波福知山市で訪れた雪の福知山城のことだった。1579年、明智光秀の築城だが、石垣に五輪塔、宝筐印塔など多数の墓石がはめ込まれているのにぎょっとしたのだ。基礎の格狭間の形から推定し、室町、或いは鎌倉時代に遡りそうなものもあった。
 
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  急いで築城するため、近隣の仏教寺院の墓をあさって、利用したのだという。光秀についてその時思ったのは、
1)強烈な反仏教の考えがあり、民衆に見せ付けたかったから、
2)石材が不足し、墓でも使えるものは使う、徹底した合理主義から、
そのどっちか、あるいはその両方かと考えた。
 
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 観光客と見て、説明に来た係の男性は「お墓を使ったのは、祖先たちの墓で城を守護するいうためだ、という肯定的な見方もあります」と話したが、思わず、「それはないでしょう」と反応してしまった。光秀が普請目付として築城した奈良の大和郡山城も、同じように墓石を使っていると教えてくれた。
 
 帰京して、調べてみると、京都の旧二条城も、織田信長の命で光秀が築城に加わっていた可能性が高いことが分かった。今の二条城の前に建てられたもので、旧二条城の発掘で明らかになったのは、墓石ばかりか多くの石仏が石垣に用いられていた事実だった。「仏教芸術」の表紙にその石仏群が用いられていた。
 大きな石像(石仏だろう)は割って、縄にくくりつけてぞんざいに運んだという。総指揮は信長がとったが、当時、この築城の様子を目撃した京中の人々が、恐怖に陥ったと、宣教師ルイス・フロイスが記録に残している。
 
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 光秀の考えはどんなだったのだろう。
 洛中洛外の寺院から石像、祭壇、庭石と建築用材のあらゆる石材を徴収した信長のやり方を踏襲して、10年後に福知山城、続いて大和郡山城を築城する。比叡山の焼き討ちなど、反抗する寺院を攻撃した織田信長と同じような考えを持っていたのか。
 
 鵜飼氏の「仏教抹殺」を読むと、廃仏毀釈の時、諸藩の行動はまちまちだったことが分かる。強烈な推進派だった薩摩藩や、水戸学の立場で廃仏を進めた水戸藩は事情が読み取れるが、「斟酌(しんしゃく)」「忖度」派が多かったことを掘り出している。
 宮崎県の諸藩は、強力な隣藩・薩摩藩の顔色を見て追随した。
 佐幕か勤王か判断が遅れた松本藩主は、東征軍の到着にあわて、恭順を強調するかのように極端な廃仏毀釈に走った。廃仏毀釈の熱狂度は、トップの判断によるものが多かったことが分かる。
 大体が神仏分離に従ったが、真宗など一部僧侶の活躍もあって、はなはだしい廃仏毀釈にいたらなかった地域も多いのだった。
 
 織田信長の手足として活躍した明智光秀は、最後に信長に叛旗を翻して、本能寺に向う。戦国時代に「廃仏毀釈」を推進した光秀の行動は、積極的な意思からなのか、あるいは信長に従ったまでなのか。
 
 来年のNHKの大河ドラマでは、明智光秀が主人公として扱われるのだという。墓石の石垣作りについて語られることがあるのだろうか。明るく、現代人のようなヒーローが出てくる大河ドラマを見て、過分な期待はしないことにした。
 
 正月早々思ったことは、歴史には裏表があって、表だけだと、歴史の醍醐味も半分しか味わえないのだ、たぶん。