「土」の装幀をめぐって

 長塚節「土」の復刻版を古書肆から取り寄せた。明治45年の春陽堂の箱入り菊版上製を、1984年に復刻したものだ。目に付いたのはー。

 

  • 美しい装幀
  • 色違い(代赭色)でより大きな活字で組まれた夏目漱石の序
  • 装幀のイメージとは全く違う、延々と続く茨城の貧農一家の救いのない内容

 

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 装幀は、長塚の知友の日本画家の平福百穂が手掛けたものだった。秋田・角館出身の百穂は、正岡子規の弟子伊藤左千夫の門を叩き、伊藤、長塚とともに、子規の流れの写生の歌を作っていた。「馬酔木」同人となった明治36年には、左千夫、節と3人で筑波山登山、豪農だった節の実家(現・常総市)に宿泊している。そんな間柄だった。

 

 その当時百穂は、電報新聞の挿絵画家で生計を立てていた(カメラマンが出現する前は、画家が現場へ行ってスケッチしていたのだった)。日刊平民新聞、風刺雑誌団々珍聞とその後も挿絵画家の仕事を続けた。

 

 「土」に戻ると、この作品は明治43年、夏目漱石長塚節に、東京朝日新聞の連載を依頼したもので、156回に及ぶ長編となった。同社の主筆池邉義家が、単行本化を勧め、2年後に春陽堂からの出版が決まった。

 

 装幀を百穂が担当したのは、長塚に頼まれたからだろう。明治初めに設立された出版社の春陽堂は、創業者の和田篤太郎が表紙や挿絵に、美しい木版画を用いることを好んだ。単行本の多くは、函入りの豪華なもので、色鮮やかな表紙を売り物にしていた。

 

 百穂は、春陽堂の意向に沿って、美しい絵を描いたのだった。函は臙脂の鮮やかな色。表紙から背へ、花の木版画。枝葉の緑、花の朱のコントラストが美しい。

 

 本が届き、猫と一緒に眺めていると、細が「きれいなホウセンカ!」と声をあげたので、「ああ、花はホウセンカなのだ」と気が付いた。

 

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 百穂にとって、30代前半に手掛けた「土」の装幀は生涯忘れがたいものだったようだ。

 4年後の大正4年に35歳で没した長塚の葬儀に在京の友人代表で参列した百穂は、三周忌に次のような歌を作った。

 

 いのちこめて此世に残しし一巻の「土」をし見ればただに哀しも

 

 縮刷の「土」の表紙の鳳仙花君も宜(うべ)なひしその鳳仙花

 

 表紙の花はやはり「鳳仙花」だった。その花の選択を、長塚も「宜なひし」、賛成し納得してくれたことがうかがえる。

 

 鬼怒川西岸の貧農の「涙さへ出されない苦しさ」(漱石)が、延々と続く写実小説に、新聞掲載時から批判の声があった。漱石は、序「土に就て」で、

「余がかつて「土」を「朝日」に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。」

 

 漱石は坊ちゃんの主人公のように憤る。

「其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。」

 

 そして、自分は娘に読ませたいと書いている。

「「土」を読むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな気がするだろう。余もさう云ふ感じがした。或者は何故長塚君はこんな読みづらいものを書いたのだと疑ふかも知れない。そんな人に対して余はただ一言、斯様な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舎に住んで居るといふ悲惨な事実を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生観の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの参考として利益を與へはしまいかと聞きたい。」

「余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと云ひ募る時分になったら、余は是非「土」を読ましたいと思って居る」

 

 百穂は、画家森田恒友が亡くなった昭和8年、「アトリエ」の恒友追悼号で、次のように語っている。

 

 「かつて、長塚節が、朝日新聞紙上に「土」と云ふ小説を連載した当時、私の知人には小説家でない人が長編をかいて、いかにも土臭くて小説としてはどういふものなのだらうかと云ふ風に云ってゐた人もありましたが、森田君は非常に感激して、茨城を中心とするその自然と人生への鋭い観察に対して、感想をかかれたことを私は記憶してゐます。長塚君も森田君のその文を見てひどく感激して私を訪れ、その頃の森田君の住んでゐた小石川のうちに一緒にたづねて、初めて対面しそれから長塚君との心からの交はりがつづいたのでした」

 

 小石川の家ならば、恒友が大阪の新聞社を辞めて帰京し、渡欧の準備をしていた大正元年―同3年。この時期、2人に親交があったのだった。しかし、恒友の渡欧中に節は亡くなった。

 百穂は「今はこの二人もすでに世を去って、私にとっては誠に寂しい気がしてなりません」(「森田君を想う」)。

 

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 百穂が描いた「土」の扉絵は、紫の花。WEBで調べると、芹葉飛燕草(セリバヒエンソウ)に似ている。中国原産で、明治時代に渡来し、東京中心に分布した花だという。百穂が目にしていた可能性は高いが、はて。