幻の五輪向けホテルのロビーを飾った朝井画伯

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 長崎・丸山町を歩く。レトロ風の交番があって歴史ある建物かと思ってしまう。実は、1970年代から80年代のバブル期にかけて建った新しい建築だった。
 歴史の遠近法は難しい。
 現代の目で昭和11年の朝井閑右衛門画伯と新制作派の三田康画伯たちを判断するのは難しい。
 しかしもう少し続けてみよう。この年の7月末ベルリンでIOC総会が開かれ、昭和15年の五輪開催地が東京に決まった。日本は沸き立ち、外国観光客を迎えるホテルの建設が始まった。東京ばかりでない。秋田の十和田ホテルが五輪客を当て込んで建設された。浜名湖ホテル、登別ホテルも同13年に開業した。
 東京では新橋第一ホテルが12年に着工され、13年にオープンした。欧風ホテルだけに、正面ロビーを飾る大きな絵が必要とされた。何を隠そう、その絵に選ばれたのが、朝井画伯の「丘の上」だった。
 五輪開催に向けたホテル建設。新制作派の画家たちが、「丘の上」に似たミュージシャンの演奏やダンスを描いた理由は、これだったのではないか。
 ホテルはロビーに飾る大作の画を探していた。朝井や新制作派の若き画家たちは、それに応じて大作を描いたー。
 そして第一ホテルが択んで購入したのが「文展鑑査会」に出品された朝井の「丘の上」だった。
 五輪ポスターは、東京美術学校図案科教授の和田三造画伯。上野の森の画学生たちも意欲を燃やしていたと想像される。
 
 しかし、昭和13年6月近衛文麿内閣は東京五輪中止を決めた。戦争遂行以外の資材を制限する方針を打ち出したのだ。戦争に向かって日本には五輪を開催する余裕などなかったのだ。
 五輪から日中戦争へ、画家たちの仕事の場も移ってゆく。朝井や新制作派の画家たちも時代に流されていったのだ。昭和13年4月に「大日本陸軍従軍画家協会」が結成され、新制作派の指導的立場の重鎮・藤島武二(前年度文化勲章受章)、新制作派の中心メンバー小磯良平が、川端龍子鹿子木孟郎石井柏亭、中村研一らとともに役員になる。
 
(続く)